キャサリン・ヘプバーン
Katharine Hepburn
生年月日:1907年5月12日 アメリカ合衆国コネチカット州ハートフォード
没年月日:2003年6月29日(享年96才:アメリカ合衆国コネチカット州)
代表作:
「勝利の朝」(共演アドルフ・マンジュー、ダグラス・フェアバンクス・Jr.)
「フィラデルフィア物語」(ケーリー・グラント、ジェームズ・スチュワート)
「招かれざる客」(共演スペンサー・トレイシー、シドニー・ポワチエ)
「冬のライオン」(共演ピーター・オトゥール、アンソニー・ホプキンス)
「黄昏」(共演ヘンリー・フォンダ、ジェイン・フォンダ、監督マークライデル)
受賞歴:
・アカデミー賞 主演女優賞「勝利の朝」(ノミネート計12回!史上2位)
・アカデミー賞 主演女優賞「招かれざる客」(ノミネート計12回!史上2位)
・アカデミー賞 主演女優賞「冬のライオン」(ノミネート計12回!史上2位)
・アカデミー賞 主演女優賞「黄昏」(ノミネート計12回!史上2位)
・エミー賞 女優賞 TV映画「Love Among the Ruins」
結婚歴:
・大学時代に知り合った実業家の男性(1928~1934:離婚)
パートナー関係:
・スペンサー・トレイシー(1941~1967:死別)
女優キャサリン・ヘプバーンについて、あなたはどんなイメージを持ってますか?
キャサリン・ヘプバーンは、アカデミー賞 主演女優賞をなんと4度も受賞した唯一無二の演技派女優です!
ノミネート数も12回という、史上2位の多さを誇ります。(ノミネート数1位はメリル・ストリープ)
しかし、面白いことにキャサリン・ヘプバーン自身は賞レースには関心がなく、受賞した際にも、一度も受賞式には出席しませんでした。(ただし友人に賞を贈呈するために1度だけ出席しています)
また、キャサリン・ヘプバーンはアメリカ映画協会(AFI)が選出した「映画スター ベスト100」で堂々の第1位に輝いています☆(ちなみに、2位はベティ・デイヴィス、3位はオードリー・ヘプバーン)
名実ともにアメリカNo.1女優といえる女優さんなんですね。俳優スペンサー・トレイシーとは、公私にわたって良きパートナーだったようで、彼のとの共演作は数多くあり、名コンビでした。
個人的には、作品の中にキャサリン・ヘプバーンが登場すると一気に締まるというか、雰囲気が変わるような気がするくらいカリスマ性のある女優だと思います。
パンツ・ファッションが良く似合う、カッコ良い女性の代表のような、プロフェッショナルに徹した女優といえるでしょう。
ほぼ全出演作品リスト
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1928年(21才の年) 舞台「Holiday」(控え:原作フィリップ・バリー、出演モンロー・オーズリー)
1930年(23才の年) 舞台「村のひと月」(控え:原作:イワン・ツルゲーネフ、演出:ルーベン・マムーリアン)
1930年(23才の年) 舞台「The Admirable Crichton」(原作:ジェームス・マシュー・バリー)
1931年(24才の年) 舞台「猫とカナリア」(原作:ジョン・ウィラード)
1931年(24才の年) 舞台「再生の港」(原作:ジュールス・エッカート・グッドマン)
1932年(25才の年) 映画「愛の嗚咽(A Bill of Divorcement)」(監督:ジョージ・キューカー、共演:ジョン・バリモア)
1933年(26才の年) 映画「人生の高度計(Christopher Strong)」(監督:ドロシー・アーズナー、共演:ビリー・バーク)
1933年(26才の年) 映画「勝利の朝(Morning Glory)」(監督:ローウェル・シャーマン、共演:ダグラス・フェアバンクスJr.)
1933年(26才の年) 映画「若草物語(Little Women)」(監督:ジョージ・キューカー、共演:ポール・ルーカス)
1934年(27才の年) 舞台「The Lake」(原作:ドロシー・マッシンハム、演出:ジェド・ハリス)
1934年(27才の年) 映画「Spitfire」(監督:ジョン・クロムウェル、共演:ロバート・ヤングほか)
1934年(27才の年) 映画「小牧師(The Little Minister)」(監督:リチャード・ウォレス、共演:ドナルド・クリスプ)
1935年(28才の年) 映画「心の痛手(Break of Hearts)」(監督:フィリップ・モイラー、共演:シャルル・ボワイエ)
1935年(28才の年) 映画「乙女よ嘆くな(Alice Adams)」(監督:ジョージ・スティーヴンス、共演:フレッド・マクマレイ)
1935年(28才の年) 映画「男装(Sylvia Scarlett)」(監督:ジョージ・キューカー、共演:ケーリー・グラント)
1936年(29才の年) 映画「メアリー・オブ・スコットランド」(監督:ジョン・フォード、共演:フレドリック・マーチ)
1936年(29才の年) 映画「女性の反逆(A Woman Rebels)」(監督:マーク・サンドリッチ、共演:ハーバート・マーシャル)
1937年(30才の年) 映画「偽装の女(Quality Street)」(監督:ジョージ・スティーヴンス、共演:ジョーン・フォンテイン)
1937年(30才の年) 映画「ステージ・ドア」(共演:ジンジャー・ロジャース、ルシル・ボール、アン・ミラー)
1938年(31才の年) 映画「赤ちゃん教育」(監督:ハワード・ホークス、共演:ケーリー・グラント)
1938年(31才の年) 映画「素晴らしき休日」(監督:ジョージ・キューカー、共演:ケーリー・グラント、リュー・エアーズ)
1939年(32才の年) 舞台「フィラデルフィア物語」(原作フィリップ・バリー、共演レノア・ロナーガン、ジョゼフ・コットン)
1940年(33才の年) 映画「フィラデルフィア物語」(ジョージ・キューカー、ケーリー・グラント、ジェームズ・スチュワート)
1942年(35才の年) 映画「女性No.1(Woman of the Year)」(監督ジョージ・スティーヴンス、共演スペンサー・トレイシー)
1942年(35才の年) 舞台「Without Love」(原作:フィリップ・バリー、共演:エリオット・ニュージェント)
1942年(35才の年) 映画「火の女(Keeper of the Flame)」(監督:ジョージ・キューカー、、共演:スペンサー・トレイシー)
1943年(36才の年) 映画「ステージドア・キャンティーン(Stage Door Canteen)」(カメオ出演)
1944年(37才の年) 映画「Dragon Seed」(監督:ジャック・コンウェイ、共演:ウォルター・ヒューストン)
1945年(38才の年) 映画「Without Love」(監督:ハロルド・S・ビュケ、共演:スペンサー・トレイシー)
1946年(39才の年) 映画「底流(Undercurrent)」(ヴィンセント・ミネリ、共演:ロバート・ミッチャム、ロバート・テイラー)
1947年(40才の年) 映画「大草原(The Sea of Grass)」(監督:エリア・カザン、共演:スペンサー・トレイシー)
1947年(40才の年) 映画「愛の調べ(Song of Love)」(監督:クラレンス・ブラウン、共演:ポール・ヘンリード)
1948年(41才の年) 映画「愛の立候補宣言(State of the Union)」(監督:フランク・キャプラ、共演:スペンサー・トレイシー)
1949年(42才の年) 映画「アダム氏とマダム(Adam's Rib)」(監督:ジョージ・キューカー、共演:スペンサー・トレイシー)
1950年(43才の年) 舞台「お気に召すまま」(原作:ウィリアム・シェイクスピア、共演:クロリス・リーチマン)
1951年(44才の年) 映画「アフリカの女王(The African Queen)」(監督ジョン・ヒューストン、共演:ハンフリー・ボガート)
1952年(45才の年) 舞台「お気に召すまま」(原作:バーナード・ショー、共演:ロバート・ヘルプマン)
1952年(45才の年) 映画「パットとマイク(Pat and Mike)」(監督:ジョージ・キューカー、共演:スペンサー・トレイシー)
1955年(48才の年) 舞台「じゃじゃ馬ならし」(原作:ウィリアム・シェイクスピア)
1955年(48才の年) 舞台「尺には尺を」(原作:ウィリアム・シェイクスピア)
1955年(48才の年) 舞台「ヴェニスの商人」(原作:ウィリアム・シェイクスピア)
1955年(48才の年) 映画「旅情(Summertime)」(監督:デヴィッド・リーン、共演:デヴィッド・リーン)
1956年(49才の年) 映画「雨を降らす男(The Rainmaker)」(監督:ジョセフ・アンソニー、共演:バート・ランカスター)
1956年(49才の年) 映画「ロマンス・ライン(The Iron Petticoat)」(監督:ラルフ・トーマス、共演:ボブ・ホープ)
1957年(50才の年) 舞台「空騒ぎ」(原作:ウィリアム・シェイクスピア)
1957年(50才の年) 映画「デスク・セット(Desk Set)」(監督:ウォルター・ラング、共演:スペンサー・トレイシー)
1959年(52才の年) 映画「去年の夏 突然に」(ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ,モンゴメリー・クリフト,エリザベス・テイラー)
1960年(53才の年) 舞台「十二夜」(原作:ウィリアム・シェイクスピア)
1960年(53才の年) 舞台「アントニーとクレオパトラ」(原作:ウィリアム・シェイクスピア)
1962年(55才の年) 映画「夜への長い旅路」(監督:シドニー・ルメット、共演:ラルフ・リチャードソン)
1967年(60才の年) 映画「招かれざる客」(監督スタンリー・クレイマー、共演シドニー・ポワチエ、スペンサー・トレイシー)
1968年(61才の年) 映画「冬のライオン」(監督アンソニー・ハーヴェイ、共演ピーター・オトゥール、アンソニー・ホプキンス)
1969年(62才の年) ミュージカル舞台「ココ(Coco)」(脚本アラン・ジェイ・ラーナー、共演ルネ・オーベルジョノワ)
1969年(62才の年) 映画「シャイヨの伯爵夫人」(監督:ブライアン・フォーブス、共演:ダニー・ケイ、シャルル・ボワイエ)
1971年(64才の年) 映画「トロイアの女」(監督:マイケル・カコヤニス、共演:ヴァネッサ・レッドグレイヴ)
1973年(66才の年) 映画「A Delicate Balance」(監督トニー・リチャードソン、共演ポール・スコフィールド、リー・レミック)
1973年(66才の年) TV映画「ガラスの動物園」(監督:アンソニー・ハーヴェイ、共演:サム・ウォーターストン)
1975年(68才の年) 映画「オレゴン魂」(監督:スチュアート・ミラー、共演:ジョン・ウェイン)
1975年(68才の年) TV映画「恋の旅路」(監督:ジョージ・キューカー、共演:ローレンス・オリヴィエ)
1976年(69才の年) 舞台「A Matter of Gravity」(原作:イーニッド・バグノルド、共演:クリストファー・リーヴ)
1978年(71才の年) 映画「ゆかいな風船旅行」(監督リチャード・コーラ、共演デニス・ディムスター、ケヴィン・マッケンジー)
1979年(72才の年) TV映画「小麦は緑(The Corn Is Green)」(監督:ジョージ・キューカー、共演:イアン・セイナー)
1981年(74才の年) 舞台「ウェストサイドワルツ」(原作:アーネスト・トンプソン、共演:ドロシー・ラウドン)
1981年(74才の年) 映画「黄昏」(監督:マーク・ライデル、共演:ヘンリー・フォンダ)
1985年(78才の年) 映画「Grace Quigley」(監督:アンソニー・ハーヴェイ、共演:ニック・ノルティ)
1986年(79才の年) TV映画「Mrs. Delafield Wants to Marry」(監督:ジョージ・シェーファー、共演:ハロルド・グールド)
1988年(81才の年) TV映画「Laura Lansing Slept Here」(監督:ジョージ・シェーファー、共演:ジョエル・ヒギンズ)
1992年(85才の年) TV映画「The Man Upstairs」(監督:ジョージ・シェーファー、共演:ライアン・オニール)
1994年(87才の年) TV映画「This Can't Be Love」(アンソニー・ハーヴェイ、アンソニー・クイン、ジェイソン・ベイトマン)
1994年(87才の年) TV映画「One Christmas」(監督トニー・ビル、共演:ヘンリー・ウィンクラー、スージー・カーツ)
1994年(87才の年) 映画「めぐり逢い」(監督グレン・ゴードン・キャロン、共演ウォーレン・ベイティ、アネット・ベニング)
オーナー厳選作品のご紹介
キャサリン・ヘプバーン出演映画の中から、当サイトのオーナーがオススメする作品を、何本かご紹介します☆
まずは、映画「女性No.1(Woman of the Year)」(1942)です!
キャサリン・ヘプバーンが35才の年に公開された作品。
監督は、映画「陽のあたる場所」と「ジャイアンツ」で2度のアカデミー監督賞を受賞しているジョージ・スティーヴンスで、
共演はキャサリン・ヘプバンとは公私にわたりベストパートナーだった俳優で、映画「招かれざる客」などへの出演で知られるスペンサー・トレイシーです。
ちなみにスペンサー・トレイシーも2度アカデミー賞主演男優賞を受賞していますし、キャサリン・ヘプバーンは4度も主演女優賞を受賞していますから、最強に実力派揃いのキャストですよね(笑)
バリバリのキャリア・ウーマンの女性が、仕事に恋愛に奮闘する内容ですが、個人的には、なぜかちょっと映画「ノッティングヒルの恋人」を思い出しちゃいました♪
私は、この映画でキャサリン・ヘプバーンの魅力に魅せられて、以来、大好きな女優さんの1人になりました☆
ちなみに本作は2022年7月現在、アマゾンのプライム・ビデオで視聴できるようです。プライム会員は無料で観放題です。私もプライムビデオで観ましたよ☆
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2作目は、1937年(30才の年) の映画「ステージ・ドア」です!
監督は、映画「襤褸と宝石」で知られるグレゴリー・ラ・カヴァ。前年に公開された戯曲の映画化になります。
共演は、映画「恋愛手帖」や「有頂天時代」などで有名なオスカー女優ジンジャー・ロジャースに加え、TVコメディシリーズ「アイ・ラブ・ルーシー」主演で知られるルシル・ボールや、映画「イースター・パレード」などで知られるアン・ミラー、そしてチャップリン映画「巴里の女性」で知られるアドルフ・マンジューなど、豪華キャストが勢ぞろいした作品です☆
大勢のエネルギッシュな女性たちがスターになることを夢見て一緒に暮らしながら切磋琢磨するという内容です。
ストーリー的には個人的にはそこまで好みではないのですが、さすが将来のビッグスターたちばかりなので、観ていて本当に元気をもらえる気がします!
そして、さすがキャサリン・ヘプバーンの存在は、その中でも際立っていますね。そして、ジンジャー・ロジャースの演技も自然体でとっても好感が持てますね♪
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オススメ3作目は1940年(33才の年)の映画「フィラデルフィア物語」です!
この作品は、とにかくキャストがスゴいです!
なんといっても、
アメリカ映画協会(AFI)が選出した映画スターベスト100で、女性部門第1位に輝いたキャサリン・ヘプバーンを、
同じくアメリカ映画協会(AFI)選出の映画スターベスト100ランキング、男性部門第2位のケーリー・グラントと、
第3位のジェームズ・スチュワートが取りあうという、スゴすぎる配役なんです!!
映画スター ランキング1位の女優と、2位の俳優、そして3位の俳優が出演しているんですから、もうアメリカのトップスター勢揃いの1本と言えますね☆
監督は、映画「マイ・フェア・レディ」や「ガス燈」などで有名なジョージ・キューカーです。
個人的にストーリーがそこまで好きというわけではありませんでしたが、この大好きなスター3人が共演しているというだけで感動しちゃいました♪
ちなみに、この作品でアカデミー脚色賞と、ジェームズ・スチュワートがアカデミー主演男優賞を受賞しました。
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このコーナーで紹介しきれなかった膨大な数の映画やTVドラマについては、下記にある予告編動画の紹介コーナーで探してみてくださいね!
ざっくりと生い立ちをご紹介
1907年5月12日に、アメリカ合衆国のコネチカット州ハートフォードで生まれました。
本名は、キャサリン・ホートン・ヘプバーンで、6人兄弟の2番目です。
父親は泌尿器科医で、母親は女性運動家という家庭で育ちます。
キャサリン・ヘプバーンも母親に連れられて、子供の頃に女性の参選運動獲得のためのデモなどにいくつか参加していたそうです。
当時にしては、結構、前衛的な両親だったようですね。ちなみに、キャサリン・ヘプバーンはこういった両親の元に育ったことを幸運だとしており、生涯にわたって家族とは親密だったようです。
なお、若い頃のキャサリン・ヘプバーンは、おてんば娘でショートカット。そして父親からゴルフを習っていたため、相当な腕前だったそうです。
少しマニアックなところでは、水泳も大好きで、毎朝、良薬は口に苦しという言葉を信じて水風呂に入っていたそうです。
もちろん、映画も大好きで毎週観に行っていたし、自身でも兄弟や友達と一緒に芝居を演じては、チケット代50セントを稼ぎ、ナバホ族(アメリカ先住民の部族)のためにお金を工面してあげていたとのこと。
1921年(14才の年)
13才だったキャサリン・ヘプバーンと15才年上の兄トムは、この年に母親の友達と一緒にニューヨークを訪れています。
そのトムが3月30日に、遺体でヘプバーンに発見されます。どうやらカーテンを使った首吊り自殺のように見える格好で発見されたようですが、ヘプバーンの家族は自殺ではなく、事故死だったと主張したとのこと。
ヘプバーンは相当ショックを受けて、学校を中退。家庭教師に勉強を習うというスタイルに変えます。そして、その後長い間、兄トムの誕生日だった11月8日を自分の誕生日としていたということです。
ちなみにヘプバーンの誕生日が本当は5月12日であるとわかったのは、なんと1991年(84才の年)に出版した自伝「Me: Stories of My Life」で本当の誕生日を明かした時に、はじめて判明したそうです。
1924年(17才の年)
超難関な名門私立女子大学のブリンマー大学に入学します。
在学中には演劇にも興味を持ち続け、大学の舞台などに立ち、演技の経験を積んでいます。この頃に主演した舞台の評価などが良かったことから女優への道をますます強く意識するようになったようです。
1928年(21才の年)、ブロードウェイ・デビューと結婚
歴史と哲学で、学士を取得して大学を卒業。この頃には女優になることを決意していたとのこと。
卒業した翌日には、メリーランド州ボルチモアへ向かい、人気の劇団を運営しているプロデューサーのエドウィン・H・ノッフという人物に会いにいきます。
そこで、演技への熱意を語り、その意欲に感銘を受けたエドウィン・H・ノッフは自身の劇団にキャサリン・ヘプバーンを入団させます。
キャサリン・ヘプバーンの演技は評判がよく、注目を集めたようですが、甲高い声については批判もあったとのこと。
そのため、発声について学ぶために早速ニューヨークのトレーナーの元へ向かいます。
なお、ニューヨークでは、エドウィン・H・ノッフが後に映画化もされる「チウインガム行進曲」という舞台をプロデュースして、その舞台の主演女優の代役としてキャサリン・ヘプバーンを指名しています。
そして、なんと開幕の1週間前に主演女優が降板するという事態が発生して、キャサリン・ヘプバーンが主演を務めます。しかし、4週間ほど演じたものの、ヘプバーンの出来はあまり芳しくなくクビになってしまい、結局、元の女優が主演を務めることになりました。
劇団をクビになったキャサリン・ヘプバーンは、アーサー・ホプキンスという劇作家で演劇プロデューサーが率いる劇団に入り、主演女優の代役を務めるようになります。
また、11月にはブロードウェイデビューも果たしています。
しかし、キャサリン・ヘプバーンは12月には、この劇団を辞めて、大学時代に知り合った男性と結婚します。相手の男性は当時29才で、キャサリン・ヘプバーンは21才でした。
ただし、やっぱり演技の仕事が恋しかったため、すぐに劇団へ入団しなおします。
劇団をクビになったり、結婚するために劇団を辞めたりと、大女優にも仕事や恋に悩んでいた時期があったのですね。
1930年(23才の年)
マサチューセッツ州のバークシャー劇団に入団。
1932年(25才の年)、RKOと契約し、映画デビュー&ジョージ・キューカー監督との出会い
舞台「The Animal Kingdom」にキャスティングされ、映画「風と共に去りぬ」で有名なレスリー・ハワードと共演することが決定します。
しかし、リハーサルをしているうちに、キャサリン・ヘプバーンは降板になってしまいます。
キャサリン・ヘプバーンのスゴイところは、これまで何度もクビになっているにもかかわらず、決してあきらめずに新しい役を捜し求め続けたことですね!
その後、3ヶ月続いた「The Warrior's Husband 」という舞台に出演し、ついに好意的な評論を得ます。
そして、舞台を観ていたハリウッドの映画エージェントの男性から、ジョン・バリモア主演の映画「愛の嗚咽(A Bill of Divorcement)」のスクリーンテストを受けてみないかと誘われます。
そこで、後に映画「マイ・フェア・レディ」などで知られるようになる、本作の監督だった若き頃のジョージ・キューカーが、キャサリン・ヘプバーンの独特なキャラクターやしぐさに感銘を受けて、見事採用!映画デビューすることになります!
しかも、なんとキャサリン・ヘプバーンはこのオファーを受けるにあたって、週給1500ドル(約15万円)という、当時のまだ無名だった女優に対するギャラとしては高い要求をつきつけます。
結局、この映画の製作会社だったRKO社は、ジョージ・キューカー監督の説得もあり、この金額で3週間の契約を結びました。
このことを後に、RKO社のトップだったデイヴィッド・O・セルズニックは素晴らしいチャンスに恵まれた出来事だったと語っていたといいます。
結果として、映画はヒットして、ニューヨークタイムズやヴァラエティ誌など大手メディアはこぞってキャサリン・ヘプバーンを絶賛して、RKOはキャサリンとの契約延長を決定しました。
この出会い以来、キャサリン・ヘプバーンとジョージ・キューカーは生涯の親友として親交があり、合計10本もの映画でタッグを組むことになります。
私生活では、この頃から自身のエージェントの男性と恋仲になったと言われています。(両者とも既婚)
1933年(26才の年)、アカデミー主演女優賞受賞!
キャサリン・ヘプバーンの2作目の出演映画は、「人生の高度計(Christopher Strong)」で、監督は当時のハリウッドでは唯一の女性監督だったドロシー・アーズナーです。
共演は、映画「フランケンシュタイン」で知られるイギリスの舞台俳優コリン・クライヴでした。
興行成績はパッとしませんでしたが、キャサリン・ヘプバーンの演技は、評論家からは概ね良い反応を得られたようです。
そして、この年、映画「勝利の朝(Morning Glory)」に出演して、アカデミー主演女優賞に輝きます!
キャサリン・ヘプバーンは、これがきっかけで一気にスターダムへと駆け上っていくことに☆
監督は、映画「栄光のハリウッド」への出演や、映画「わたしは別よ」を監督したことなどで知られるローウェル・シャーマンで、共演は、ジョーン・クロフォードの元夫でダグラス・フェアバンクスの息子でもある俳優ダグラス・フェアバンクス・ジュニアや、チャップリン映画「巴里の女性」などで知られるアドルフ・マンジューです。
ちなみに、もともとは主演女優として人気女優コンスタンス・ベネットが予定されていたとも言われますが、結局、キャサリン・ヘプバーンがキャスティングされたんだそうです。
なお、キャサリン・ヘプバーンはアカデミー賞の受賞式には出席していません。というか、生涯にわたって、自身が受賞されるために受賞式へ出席するということはありませんでした。
さらに、この年には、もう1本、映画「若草物語(Little Women)」にも出演しています。
こちらの映画でキャサリン・ヘプバーンは、ヴェネツィア国際映画祭で女優賞を受賞しています☆作品自体もアカデミー脚色賞に輝きました。
監督は、再びジョージ・キューカーで、共演は、フリッツ・ラング監督作品への出演で知られるジョーン・ベネットや、映画「ラインの監視」でオスカーを獲得したポール・ルーカスなどです。
本作はキャサリン・ヘプバーン自身もお気に入りの1作だったそうです。
1934年(27才の年)、正式に離婚
映画「Spitfire」に出演するも、評価はイマイチ。キャサリン・ヘプバーンは自分を謙虚に保つようにと、この時自分が演じた役の写真を、自身のベッドルームに生涯、飾っていたそうです。
監督は、映画「小公子」や「君去りし後」などで知られるジョン・クロムウェルで、共演は、TVシリーズ「パパは何でも知っている」で有名なロバート・ヤングや、映画「ルーズベルト物語」などで知られるトニー賞 主演男優賞 受賞俳優のラルフ・ベラミーなどになります。
余談ですが、ジョン・クロムウェルの息子は、映画「アイ,ロボット」の博士役や、海外ドラマ「24 -TWENTY FOUR-」でジャック・バウアーの父親役を演じたことなどで知られるジェームズ・クロムウェルですよ。
また、この頃にスランプに陥っていたといわれている舞台プロデューサーのジェド・ハリスから、小額のギャラで舞台に出演してくれないかと言われ、これを快諾し、舞台「The Lake」に出演しています。
しかしWikipediaによると、ジェド・ハリスの演出がひどかったようで、評論家からは酷評されます。さすがのキャサリン・ヘプバーンも契約期間を満たさずに途中で降板を希望して、かなりの額を違約金としてジェド・ハリスに支払ったそうです。
キャサリン・ヘプバーンはジェド・ハリスのことをこれまで出会った人物のなかでもダントツでひどい人だったと語っています。
私生活では、本年に夫と正式に離婚。(離婚後も2人の友情は、夫だった男性が亡くなる1979年まで続いた)
ちなみに、その後、数年前から交際していた自身のエージェントだった男性も離婚したため、彼からプロポーズを受けるもキャサリン・ヘプバーンは断っています。
またこの年には、映画「小牧師(The Little Minister)」にも出演。
監督は、映画「タイクーン」などで知られるリチャード・ウォレスで、共演は、映画「わが谷は緑なりき」で助演男優賞を受賞したドナルド・クリスプなどです。
この作品は、イギリスの人気作家ジェームズ・マシュー・バリー原作です。ジェームズ・マシュー・バリーと言えば、戯曲「ピーターパン」の生みの親として有名ですね!
ただし、本作「小牧師」は興行成績的には、あまり芳しくなかったようです。
1935年(28才の年)
さらに、出演した映画「心の痛手(Break of Hearts)」も、あまり興行成績が振るわず。
共演は、映画「ガス燈」や「邂逅」などで有名なシャルル・ボワイエという、なかなか豪華なキャスティングだったんですけどね~。
その後、映画「乙女よ嘆くな(Alice Adams)」に出演。
この作品はヒットを記録し、キャサリン・ヘプバーンは、惜しくも受賞は逃しましたが、2度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされます。
監督は、映画「陽のあたる場所」などで知られるオスカー受賞監督のジョージ・スティーヴンスで、共演は、映画「深夜の告白」のフレッド・マクマレイです。
さらに、この年には、映画「男装(Sylvia Scarlett)」にも出演。
本作では、キャサリン・ヘプバーンは男に変装する役を演じ、髪の毛をばっさりと短くしています。
監督は、ジョージ・キューカーで、共演は、映画「汚名」や「シャレード」などでおなじみのスーパースター、ケーリー・グラントと初共演でした。
まだ、ケーリー・グラントが30才前後の時になります。残念ながら、この作品はあまりヒットしませんでしたが、この後もケーリー・グラントとキャサリン・ヘプバーンは複数本の映画で共演することになります。
1936年(29才の年)
翌年には、映画「メアリー・オブ・スコットランド」に出演。
監督は、映画「捜索者」や「駅馬車」などで知られる西部劇の巨匠ジョン・フォードで、
共演は、映画「生活の設計」や「スタア誕生」などで知られるフレドリック・マーチでした。
しかし、残念ながらこちらの作品もあまり人気は出ず。
続いて、映画「女性の反逆(A Woman Rebels)」に出演します。
監督は、映画「コンチネンタル」や「踊らん哉」で知られるマーク・サンドリッチで、
共演は、映画「偽りの花園」や「極楽特急」で知られるハーバート・マーシャルでした。
そして、こちらの作品もあまり人気はでなかったようです。
なおこの頃から、私生活では、起業家で大富豪のハワード・ヒューズと交際をスタートさせます。
ちなみに、キャサリン・ヘプバーンをハワード・ヒューズに紹介したのは共通の友人で俳優のケーリー・グラントだったそうです!
1937年(30才の年)
映画「偽装の女(Quality Street)」に出演。
監督は、映画「ジャイアンツ」や「陽のあたる場所」で有名なジョージ・スティーヴンスで、
共演は、ヒッチコック映画「断崖」や「レベッカ」などで知られるジョーン・フォンテインなどでした。
この作品もヒットに恵まれず、キャサリン・ヘプバーンは、なんと4本連続で不評な作品に出演したことになります。
こうした不運が続いたことで、キャサリンはこの頃、マスコミに対して横柄な態度をとってしまったり、サインを拒んだりするようになってしまいます。そして、ヘプバーンの常にズボンというボーイッシュなファッションなども当時の人々には理解されず、一部の人間からは傲慢だと陰口をたたかれていたようです。
そのため、いったんハリウッドを離れて東海岸へ移り、舞台「ジェーン・エア」に出演しています。
また、この頃に映画「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラ役のオーディションを受けますが落選しています。
また、この年には、映画「ステージ・ドア」にも出演。
本作でのキャサリン・ヘプバーンの演技は絶賛されましたが、製作したRKO社が望んだほどの利益は出せなかったようです。
とにかく共演が豪華で、映画「有頂天時代」や「恋愛手帖」で有名なジンジャー・ロジャースほか、TVシリーズ「アイ・ラブ・ルーシー」で有名なルシル・ボール、さらに映画「我が家の楽園」や「イースター・パレード」などで知られるアン・ミラーなどが出演していました。
この作品は、アカデミー作品賞ほか、監督賞、助演女優賞、脚色賞など合計4部門にノミネートされましたが、惜しくも受賞はなりませんでした。
1938年(31才の年)、RKOから独立
映画「赤ちゃん教育」に出演。
本作は、映画「ヒズ・ガール・フライデー」や「紳士は金髪がお好き」や「モンキー・ビジネス」などで有名なハワード・ホークス監督のスクリューボール・コメディで、共演は、再びケーリー・グラントです!
前作に続き、この作品でのコメディに挑戦したキャサリン・ヘプバーンの演技も評論家たちには絶賛されましたが、興行成績のほうはあまり振るわないという結果に。
ついにRKO社はキャサリン・ヘプバーンに期待するのをやめるかのように、次作にはB級映画への出演をオファーします。しかし、キャサリン・ヘプバーンはこれを拒否し、さらにRKO社との契約を75,000ドルで買取り独立した女優となることを選択しました。
その後、コロンビア・ピクチャーズ社の映画「素晴らしき休日」に出演。
舞台が原作の本作は、監督が親友のジョージ・キューカーで、共演は、3度目の共演となるケーリー・グラント!さらに、映画「西部戦線異状なし」で知られジンジャー・ロジャースの元夫としても有名なリュー・エアーズなどです。
こちらのコメディも作品自体は高評価を得たのですが、なぜか興行成績は振るわず。。。ついにキャサリン・ヘプバーンの元に届くオファーの額もデビュー当時と変わらないくらい低くなってしまったとのことです。
プライベートでは、この頃に大富豪ハワード・ヒューズとは別れたようです。
1939年(32才の年)、舞台版「フィラデルフィア物語」に活路を見出す
キャサリン・ヘプバーンは、低迷期を自ら打ち破ろうと、ハリウッドを離れて舞台への活路を見出します。
そして、前作「素晴らしき休日」の原作者として有名なフィリップ・バリー原作の舞台「フィラデルフィア物語」に出演する契約を結びます。
この舞台での共演者としては、映画「女群西部へ!」や「恋の手ほどき」などへの出演で知られる女優レノア・ロナーガンや、映画「市民ケーン」や「第三の男」「ナイアガラ」などでおなじみの俳優ジョゼフ・コットンなどがいました。結構豪華メンバーですよね!
そして、キャサリン・ヘプバーンとは恋仲だった大富豪のハワード・ヒューズは、この舞台で間違いなくキャサリン・ヘプバーンは再び人気が出てハリウッドへ戻ることになると直感的に感じて、まだ舞台が開幕される前に、すでにこの作品「フィラデルフィア物語」の映画化権利を購入してあげていたというから驚きです。
実際、この舞台はなかなかのヒットをみせ、ツアーでは計417公演も演じたそうです。
また、数社のハリウッドの大手映画スタジオから、映画化の権利を売ってほしいとのオファーもきたそうです。
そこで、キャサリン・ヘプバーンは、MGM社を選び、映画化の際の条件として、自分をヒロイン役に配役して、監督は親友でもあるジョージ・キューカー、共演者としてはジェームズ・スチュワート、そしてケーリーグラントにすることを要求しました。
なお、ケーリー・グラントにはキャスティング中、最高のギャラを支払ったそうです。
1940年(33才の年)、映画版「フィラデルフィア物語」で再び大ブレイク!
映画版の「フィラデルフィア物語」に主演。
監督は、ヘプバーンが指定したジョージ・キューカー、共演も指定したとおりのケーリー・グラント、そしてこちらも指名したジェームズ・スチュワートです。
ちなみに、この映画のファーストシーンでは、ケンカ別れしているケーリー・グラントとキャサリン・ヘプバーンが描かれていますが、ヘプバーンは、当時人気が低迷していたため、嫌われ者の私が倒されるシーンが観れたほうが観客には受けると助言し、実際に、ケーリー・グラントはヘプバーンの顔を手で覆い、彼女を玄関で張り倒すというシーンから始まります(笑)
さらに、この映画でのキャサリン・ヘプバーンを観ることによって、最終的には観客は彼女に共感し、それが再度ハリウッドでのキャサリン・ヘプバーンのイメージを作り直し、人気が出るように設計されていたというから、ほんと、キャサリン・ヘプバーンには脱帽です。彼女がプロデューサーやマーケッター、エージェントとしても一流だった証ですね☆
そして、ついに、この映画は、この年一番ヒットした映画の1本となりました!
本作は、アカデミー脚本賞を受賞。さらに、ジェームズ・スチュワートがアカデミー主演男優賞に輝き、キャサリン・ヘプバーン自身も受賞は逃しましたが、主演女優賞に3度目のノミネートを果たしました。
まさに、キャサリン・ヘプバーンがハリウッドに返り咲いた作品ですね!さすが、アメリカ映画協会(AFI)が選出した「映画スターベスト100」で、男性部門第2位に輝いたケーリー・グラントと、第3位に輝いたジェイムズ・スチュワート共演作品です!
ちなみにキャサリン・ヘプバーンは女性部門の第1位に選出されていますから、アメリカ映画史上最強のキャスティング作品とも呼べそうですね♪
晩年にドキュメンタリー番組でキャサリン・ヘプバーンがこの作品のことについて、「I gave her life, and she gave me back my career.(ヒロイン役を演じて、私は彼女に命を吹き込み、彼女は私にキャリアを返してくれたわ)」と語っていますが、まさにそのとおりですね!
なお、本作は1956年にミュージカル映画「上流社会」としてリメイクされています。主演は、本作が最後の映画出演となったグレース・ケリーで、共演はビング・クロスビーと、フランク・シナトラでした。
1942年(35才の年)、スペンサー・トレイシーとの出会い&MGMと契約
映画「女性No.1(Woman of the Year)」に出演。
この映画は、キャサリン・ヘプバーンが再びMGM社へ、250,000ドル(約2,500万円:半分は原作者の取り分)で、映画化の権利を売却して実現。
さらに、監督と共演者もキャサリン・ヘプバーンが指名するという条件をつけて、監督には、映画「ジャイアンツ」や「陽のあたる場所」などで知られるジョージ・スティーヴンスを指名。
共演者には、その後キャサリン・ヘプバーンとは公私ともに良きパートナーとなる俳優スペンサー・トレイシーを指名します。
キャサリン・ヘプバーンとスペンサー・トレイシーは、名コンビとして生涯で9作品も共演することになります。
また、2人は、本作での共演がきっかけとなり交際することになりますが、すでに結婚していたスペンサー・トレイシーはカトリックだったため離婚しなかったので、2人はスペンサー・トレイシーが亡くなるまで、長年未婚状態で交際していたようです。
ちなみに、Wikipediaによれば、初対面の際に、キャサリンがスペンサーに向かって「共演にあたって、私の方が背が高すぎるかもしれないですね」というようなことを言ったのに対して、スペンサーは、「ご心配なく。すぐにあなたの鼻っ柱を折って、私の身長サイズに合わせますので」と返したと伝えられているそうです(笑)
英語では、鼻っ柱をへし折るというのは「cut you down to size」なので、これをスペンサーは「cut you down to my size」にすることで一種のダジャレのような意味も含めたということですね。たぶん。
2人が出会ったのは、正確には1941年の撮影開始時で、キャサリン・ヘプバーンが34才、スペンサー・トレーシーは41才でした。
この作品はヒットを記録して、評論家からも絶賛されました♪そして、キャサリン・ヘプバーンは4度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされます。(受賞は逃す)
さらに、キャサリン・ヘプバーンは、独立した女優をやめて、MGM社と契約を結びます。
同年、ブロードウェイ舞台「Without Love」にも出演。こちらは「フィラデルフィア物語」の原作者であるフィリップ・バリーの戯曲で、共演は、映画「暗黒街の巨頭」などへの出演で知られるエリオット・ニュージェントでした。
この舞台は、キャサリン・ヘプバーンの人気が再上昇していたということもあり、16週連続でチケットが売りきれるほど人気だったということです。
また、MGM社は、「女性No.1」のヒットをうけて、キャサリン・ヘプバーンとスペンサー・トレイシーのコンビでさらなる作品を発表したいと考え、映画「火の女(Keeper of the Flame)」で再共演させます。
結果、本作は評論家からの評価は低かったものの、興行成績的には再びヒットを記録し、2人の名コンビぶりを証明します。
監督は、おなじみのジョージ・キューカーでした。
1943年(36才の年)
1940年代のキャサリン・ヘプバーンは1930年代に比べて仕事のペースを少し落としています。Wikipediaによると
その主な原因と言われているのは、「女性No.1」以降、交際を続けていたスペンサー・トレイシーが、アルコール依存症と不眠症に悩んでいたため、彼の力になっていたということです。
この時期には、士気を高めるための戦時中の映画「ステージドア・キャンティーン(Stage Door Canteen)」に本人役でカメオ出演しています。
1944年(37才の年)
映画「Dragon Seed」に出演するも、評価は芳しくなく、キャサリン・ヘプバーンはミスキャストだったと言われてしまう結果に終わる。監督は、映画「ブーム・タウン」で知られるジャック・コンウェイで、共演は、映画「黄金」などで知られるウォルター・ヒューストン。
1945年(38才の年)
1942年に出演した舞台版の映画化である、映画「Without Love」にスペンサー・トレイシーとともに出演。
この作品については、評価は低いけれど、やはり名コンビの2人が共演ということで、チケットの売れ行きは大変、好調だったようです。
1946年(39才の年)
映画「底流(Undercurrent)」に出演。
監督は、ジュディ・ガーランドの元夫で、映画「巴里のアメリカ人」や「恋の手ほどき」などでも有名なヴィンセント・ミネリで、
共演は、映画「帰らざる河」で知られるロバート・ミッチャムや、映画「哀愁」への出演やバーバラ・スタンウィックの元夫としても有名なロバート・テイラーでした。
豪華な顔ぶれだと思うのですが、こちらの作品の評判はあまり芳しくなかったようです。
1947年(40才の年)
映画「大草原(The Sea of Grass)」に出演。
スペンサー・トレイシーと4度目の共演作品となります。こちらも評論家からの評価はいまいちでしたが、やはり名コンビの2人が出演ということで興行成績には国内外ともに成功しています。
監督は、映画「欲望という名の電車」や「エデンの東」で有名なエリア・カザンでした。
また、同年には音楽家シューマンの伝記映画「愛の調べ(Song of Love)」にシューマンの妻でピアニストのクララ役で出演。
監督は、グレタ・ガルボ主演の映画「アンナ・カレニナ」や「肉体の悪魔」などで知られるクラレンス・ブラウンで、
共演は、映画「情熱の航路」や「カサブランカ」で知られるポール・ヘンリードでした。
キャサリン・ヘプバーンは本作のためにピアニストからピアノを集中的に特訓してもらったそうです。
1948年(41才の年)、フランク・キャプラ監督作品へ出演
この年、急遽ヒロインを務めるはずだったクローデット・コルベールの代役を頼まれたキャサリン・ヘプバーンは、映画「愛の立候補宣言(State of the Union)」に出演して、2年連続スペンサー・トレイシーと5度目の共演を果たします。
監督は、ハリウッドきっての巨匠フランク・キャプラ監督で、本作は評論家からも高い評価を得て、売り上げ的にも好調でした♪
1949年(42才の年)、名コンビで再び高評価のヒット作品
映画「アダム氏とマダム(Adam's Rib)」に出演して、スペンサー・トレイシーと3年連続、計6度目の共演を果たします。
監督は、おなじみジョージ・キューカーで、本作は、キャサリン・ヘプバーン&スペンサー・トレーシー共演作品のなかで最も興行的に成功したヒット映画となりました。
さらに、この映画は、評論家からも絶賛され高い評価を得ています。
1950年(43才の年)、さらなる挑戦へ
1950年代には、さらなるキャサリン・ヘプバーンの挑戦が続きます。
まず再び舞台へカムバックして、舞台「お気に召すまま」に出演。
原作はウィリアム・シェイクスピアの有名な作品ですね。共演は、映画「ラスト・ショー」でアカデミー助演女優賞に輝き、エミー賞でなんと20回以上もノミネートされたという女優クロリス・リーチマンでした。
たとえ失敗したとしても、難しいことにチャレンジすることを選んだキャサリン・ヘプバーンでしたが、実際、チケットの売れ行きも良く、148公演も続くロングランとなりました。
キャサリン・ヘプバーンに対する評価は賛否両論だったようですが、徐々に実力派女優として認識され始めていきます。
1951年(44才の年)
映画「アフリカの女王(The African Queen)」に出演。
キャサリン・ヘプバーンにとって初めてのカラー映画への出演となりました。
撮影はアフリカ大陸のコンゴ民主共和国で行われ、過酷だったためキャサリン・ヘプバーンは体調を崩しますが、結果は評論家からも高評価を得て、人気作品となりました!
キャサリン・ヘプバーンはこの作品で5度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされました。(受賞は逃す)
監督は、映画「マルタの鷹」や「荒野と女」で有名なジョン・ヒューストンで、
共演は、映画「カサブランカ」などで有名なハンフリー・ボガート。ボガートは本作で念願の初アカデミー賞主演男優賞に輝きました!
本作は、AFI(アメリカ映画協会)選出の「映画スターベスト100」で男性部門第1位のハンフリー・ボガートと、女性部門第1位のキャサリン・ヘプバーンが共演した作品になりますね!トップ同士が組んだ映画と思うとスゴイですね☆
なお、この作品のヒットは、スペンサー・トレイシー以外の俳優と組んだ映画では「フィラデルフィア物語」以来のヒットとなりました。ヘプバーンの人気は再び急上昇します☆
1952年(45才の年)
映画「パットとマイク(Pat and Mike)」に出演して、スペンサー・トレイシーと7度目の共演を果たします。
監督は、親友でおなじみのジョージ・キューカーで、本作は高評価を得て、ヒットを記録しました!
キャサリン・ヘプバーンは、スペンサー・トレイシーとの共演作品の中で一番好きな作品だと語っていたそうです。
また、この年には、イギリスで、バーナード・ショー原作の舞台「The Millionairess」にも出演。
10週間に渡る公演でした。
この舞台は評判がよく、続いてニューヨークでも公演されました。評論家からはそれほど絶賛されませんでしたが、人気が出てヒットしました。
キャサリン・ヘプバーンはこの舞台を映画化しようと映画会社に打診したものの、どのスタジオも難色を示したために却下となりました。この体験を後年、彼女は自身のキャリアの中でも、かなり残念だった事の1つだと語っているそうです。
1955年(48才の年)
1952年の映画「パットとマイク」でMGM社との契約が期限を迎えたので、キャサリン・ヘプバーンは、2年間の休暇をとり、旅行を楽しみます。
そして1955年に映画「旅情(Summertime)」に出演。
この映画はイタリアのヴェニスで撮影され、キャサリン・ヘプバーンの代表作の1つとしても知られています。本作でキャサリン・ヘプバーンは6度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされました。
監督は、映画「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」などで知られ、アカデミー監督賞に2度も輝いたイギリスの監督デヴィッド・リーンです。
その後、キャサリン・ヘプバーンは劇団と一緒にオーストラリア巡業に参加して、ウィリアム・シェイクスピア原作の舞台「じゃじゃ馬ならし」や舞台「尺には尺を」、そして舞台「ヴェニスの商人」などに出演し、大変な好評を得たようです!
1956年(49才の年)
映画「雨を降らす男(The Rainmaker)」に出演。
本作でキャサリン・ヘプバーンは2年連続でアカデミー主演女優賞にノミネートされました。通算7回目のノミネートになります。
監督は、映画「凡ては夜に始まる」などで知られるジョセフ・アンソニー。
共演は、映画「地上より永遠に」で知られるバート・ランカスターです。
また、映画「ロマンス・ライン(The Iron Petticoat)」にも出演。
ルビッチ監督、グレタ・ガルボ主演の人気映画「ニノチカ」をベースにした作品でしたが、残念ながら、あまりヒットせず、キャサリン・ヘプバーン自身もあまり気に入っていない作品のようです。
監督は、映画「わたしのお医者さま」などで知られるイギリスの映画監督ラルフ・トーマスで、共演は、映画「腰抜け二挺拳銃」などで有名な、イギリス生まれのアメリカを代表するコメディアンのボブ・ホープでした。
1957年(50才の年)
映画「デスク・セット(Desk Set)」に出演して、スペンサー・トレイシーと、5年ぶり8度目の共演をします。
監督は、映画「ショウほど素敵な商売はない」などで知られるウォルター・ラングでした。
しかし、この作品は興行成績的にはあまり奮わず、キャサリン・ヘプバーンは、再び舞台出演へと戻っていきます。
そして、再びウィリアム・シェイクスピア原作の舞台「空騒ぎ」に出演し、好評を得ています。
1959年(52才の年)
2年のブランクの後、映画「去年の夏 突然に」に出演。
共演は、映画「地上より永遠に」で知られるモンゴメリー・クリフトや、映画「バターフィールド8」や「陽のあたる場所」で知られるエリザベス・テイラー(当時27才頃)です。
キャサリン・ヘプバーンは、エリザベス・テイラーと共演していたんですね!しかもモンゴメリー・クリフトも出演しているということで、なんとも豪華なキャストですね!
監督は、映画「イヴの総て」などで知られるジョーゼフ・L・マンキーウィッツでしたが、キャサリン・ヘプバーンとジョーゼフ・L・マンキーウィッツは本作の撮影中に何度も意見がぶつかり、険悪な仲になってしまったようです。
しかし、興行成績的にはヒットを記録し、キャサリン・ヘプバーン自身も本作で、8度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされています。ちなみに、2人とも受賞は惜しくも逃しましたが、本作からはもう1人、エリザベス・テイラーも主演女優賞にノミネートされました。
1960年(53才の年)
再びイギリスへ渡り、ウィリアム・シェイクスピア原作の舞台「十二夜」と、舞台「アントニーとクレオパトラ」に出演。
1962年(55才の年)
映画「夜への長い旅路」に出演。
本作で、キャサリン・ヘプバーンはカンヌ国際映画祭では主演女優賞を受賞しました。また、惜しくも受賞は逃しましたが、9度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされています。
監督は、映画「十二人の怒れる男」などで有名なシドニー・ルメットで、共演は、映画「落ちた偶像」等で知られるラルフ・リチャードソンです。
この作品は、キャサリン・ヘプバーンのキャリアの中でも特に素晴らしい演技と評されている1本になります。
1967年(60才の年)、2度目のアカデミー主演女優賞
映画「夜への長い旅路」後は、しばらく休暇をとり、体調を崩していたスペンサー・トレイシーの看病をしています。
そして、スペンサー・トレイシーと9回目、最後の共演となる映画「招かれざる客」に出演します。
監督は、映画「ニュールンベルグ裁判」や「渚にて」などでも知られるスタンリー・クレイマーで、スペンサー・トレーシー以外の共演としては、映画「夜の大捜査線」などでも有名なシドニー・ポワチエ、そしてキャサリン・ヘプバーンの姪にあたる女優キャサリン・ホートンが娘役を演じるなどしています。
スペンサー・トレイシーはこの時、心臓病の影響でかなり体調が悪くなっており、本作での最後の撮影シーンを撮り終えた17日後に亡くなっています。
本作はヒットを記録して、この時点でキャサリン・ヘプバーンの出演映画としては最高の興行成績を記録しました。
また、キャサリン・ヘプバーンは実に34年ぶりとなる、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞しました。この映画は他に、脚本賞に輝いています。
1968年(61才の年)、2年連続、3度目のアカデミー主演女優賞受賞
キャサリン・ヘプバーンは最愛の人であったスペンサー・トレイシーが死去した後、すぐに次回作の映画へ出演するなど、忙しく過ごすことでなんとか乗り越えようとしたようです。
そして、映画「冬のライオン」に出演したのですが、スゴイのは、この作品でも、なんと2年連続3度目のアカデミー主演女優賞を受賞してしまいます☆
なお、この時はめずらしく、同点受賞として、同じく映画「ファニー・ガール」に主演した女優バーブラ・ストライサンドも同じく主演女優賞に輝いています。
また、映画「冬のライオン」は他にも、脚色賞と作曲賞を受賞しています。高評価を得た作品です!
監督は、イギリスの映画監督アンソニー・ハーヴェイで、共演は、映画「アラビアのロレンス」で有名なピーター・オトゥール、そして、映画「羊たちの沈黙」や「ジョー・ブラックをよろしく」などでも知られるアンソニー・ホプキンスです。
アンソニー・ホプキンスは、キャサリン・ヘプバーンと共演したことがある俳優だったのですね!びっくりです。
1969年(62才の年)
続けて翌年には、映画「シャイヨの伯爵夫人」に出演。
監督は、イギリスの映画監督ブライアン・フォーブスで、共演は、映画「ホワイト・クリスマス」や「虹を掴む男」で知られるダニー・ケイや、映画「邂逅(めぐりあい)」や「ガス燈」などで有名なシャルル・ボワイエでした。
豪華なキャスティングにもかかわらず、本作はあまりかんばしくない評価で、興行成績もいまいちだったようです。
また、この年の12月から翌年の8月まで、シャネルの創業者ココ・シャネルの生涯を描いたミュージカル舞台「ココ(Coco)」に出演します。
脚本は、映画「恋の手ほどき」や「マイ・フェア・レディ」でも脚本を務めた作詞家のアラン・ジェイ・ラーナーで、共演は本作でトニー賞に輝いたルネ・オーベルジョノワです!
キャサリン・ヘプバーンはこのミュージカルのために歌のレッスンを週に6日特訓を受けたそうです。
本作の評判はまあまあだったのですが、キャサリン・ヘプバーンの演技は評価され、作品自体も人気が出ました。キャサリン・ヘプバーンは本作でトニー賞主演女優賞にノミネートもされています。(受賞は逃しています)
1971年(64才の年)
スペインで撮影された映画「トロイアの女」に出演。
監督は、映画「その男ゾルバ」などで知られるマイケル・カコヤニスで、共演は、映画「ジュリア」でオスカーに輝いたイギリスの女優ヴァネッサ・レッドグレイヴです。
本作の評価はあまり芳しくなかったようですが、キャサリン・ヘプバーンは新たなチャレンジができて良い経験だったと前向きにとらえていたようです。
1973年(66才の年)
映画「A Delicate Balance」に出演。
こちらの作品も、残念ながら、あまり高い評価は得られませんでした。
監督は、映画「トム・ジョーンズの華麗な冒険」で知られるトニー・リチャードソンで、共演は、映画「わが命つきるとも」で知られるポール・スコフィールドや、映画「酒とバラの日々」で知られるリー・レミックなどでした。
また、この年には、初めてTV映画へ出演することにも挑戦して、TV映画「ガラスの動物園」に出演しています。
翌年には、このTV映画への出演で、キャサリン・ヘプバーンはエミー賞にノミネートもされました。(受賞は逃す)
本作は、アメリカの人気劇作家テネシー・ウィリアムズ原作で、監督は、映画「冬のライオン」でも組んだアンソニー・ハーヴェイで、共演は、TVドラマシリーズ「ロー&オーダー」や「ニュースルーム」で知られるサム・ウォーターストンです。
サム・ウォーターストンもキャサリン・ヘプバーンと共演したことがあったとは・・・!驚きです!
また、
キャサリン・ヘプバーンはプライベートを大切にする一種の秘密主義的な生活を送っており、レストランでさえあまり行かないということで知られていましたし、いわゆるハリウッドのセレブたちとの社交的な交流もくだらないと思っていたようですが、年をとるにつれてだんだんと社交的になり、
この年、めずらしくトークショー番組「The Dick Cavett Show」で、2時間におよぶインタビューに答えています。こちらはYouTubeで公式動画もたくさんありますので、このページの下記トリビア動画コーナーでも紹介しています♪
1974年(67才の年)、アカデミー賞授賞式に唯一出席
キャサリン・ヘプバーンは、この年、初めてアカデミー賞の授賞式に登場しています。しかし、自身が受賞されるためでなく、映画「熱いトタン屋根の猫」や「アダム氏とマダム」などで知られる映画プロデューサーのローレンス・ウェインガーテンに、アービング・G・タルバーグ賞を授与するという役割を果たすためでした。
ちなみに、キャサリン・ヘプバーンが登壇した際には、出席者がスタンディングオベーショーンをするという異例の事態が起こったそうです。
1975年(68才の年)、エミー賞主演女優賞を受賞☆
TV映画「恋の旅路」に出演。監督は親友で名監督のジョージ・キューカーで、共演はやはり親友でシェイクスピア俳優としても有名なローレンス・オリヴィエでした。
このTV映画は好評で、高視聴率を獲得。さらに、キャサリン・ヘプバーンは、エミー賞に2年連続ノミネートされ、ついに主演女優賞を受賞しました☆
映画「オレゴン魂」に出演。
1969年にヒットした映画「勇気ある追跡」の続編にあたる映画で、共演は「勇気ある追跡」に続き映画「捜索者」や「赤い河」で有名なジョン・ウェインです。
2大スターが共演という豪華なキャスティングではありましたが、そこそこの興行成績だったようです。
1976年(69才の年)
舞台「A Matter of Gravity」に出演。3ヶ月ほどの上演期間で、評論家の評価はいまいちでしたが、人気は出て、後には全国ツアーも組まれたほどでした。
原作は、英国の女流劇作家イーニッド・バグノルドで、共演は、映画「スーパーマン」シリーズで有名なクリストファー・リーヴです。
キャサリン・ヘプバーンは、ロサンゼルス公演の途中で股関節?を骨折してしまったのですが、それでも車椅子で公演を続けたそうです。
1978年(71才の年)
映画「ゆかいな風船旅行」に出演。
1976年の夏頃から撮影していたらしいのですが、なかなか配給会社がつかずに、結局2年後の1978年に、独立系映画として公開。あまり多くの映画館で上映することもできず、興行成績的に失敗に終わっています。
1979年(72才の年)
TV映画「小麦は緑(The Corn Is Green)」に出演。
キャサリン・ヘプバーンは、ジョージ・キューカー監督と10本の映画でタッグを組んだのですが、この作品は彼と組んだ最後の作品となりました。
本作で、キャサリン・ヘプバーンは、3度目のエミー賞にノミネートされています。(受賞は逃す)
なお、このTV映画の原作はイギリスのウェールズ出身の劇作家エムリン・ウィリアムズの戯曲になりますが、1945年にもベティ・デイヴィス主演で映画「小麦は緑」として映像化されていますね。
1981年(74才の年)、4度目のアカデミー主演女優賞
キャサリン・ヘプバーンは、2年間ほど女優活動を休んでいたこの間に、ブロードウェイで観た舞台「黄昏」に大変感銘を受けます。
ちょうど、この舞台の映画化権は自身の父親であるヘンリー・フォンダのために彼の娘のジェイン・フォンダが獲得していたため、早速、キャサリン・ヘプバーンはジェイン・フォンダに、その共演相手役を演じさせてもらえないかと持ちかけたそうです。
そして、映画「黄昏」に出演することが決定。
共演は、先述のとおり映画「十二人の怒れる男」や「レディ・イヴ」「怒りの葡萄」など数々の名作へ出演しているヘンリー・フォンダです。
監督は、映画「11人のカウボーイ」や「華麗なる週末」で知られるマーク・ライデルでした。
本作は、1981年度で2番目に興行成績の良かった作品となり、アカデミー賞では10部門にノミネートされました。
そして、ヘンリー・フォンダが初のアカデミー主演男優賞を受賞し、キャサリン・ヘプバーンが4度目の主演女優賞を受賞、そのほか、脚色賞の合計3部門を受賞する名作となりました☆
キャサリン・ヘプバーンの打ち立てた4度におよぶ演技部門でのオスカー受賞というのは、前代未聞で、2022年現在においても歴代最多受賞数を誇り、誰にも抜かれていません。
本年には、舞台「ウェストサイドワルツ」にも出演。
原作は、「黄昏」で脚本を担当したアーネスト・トンプソンでした。
1985年(78才の年)
映画「Grace Quigley」に出演。
監督は、映画「冬のライオン」や「ガラスの動物園」でもタッグを組んだアンソニー・ハーヴェイで、共演は、映画「48時間」シリーズなどで知られるニック・ノルティです。
「48時間」シリーズのあの刑事役を演じた俳優はキャサリン・ヘプバーンと共演していたのか・・・!知らなかった(笑)
評判や興行成績はいまいちだった模様。
1986年(79才の年)、TV映画への出演が大半になる
TV映画「Mrs. Delafield Wants to Marry」に出演。
監督は、映画「民衆の敵」などで知られるジョージ・シェーファーで、共演は、映画「スティング」などに出演しているハロルド・グールドでした。
本作で、キャサリン・ヘプバーンは、エミー賞にノミネートされています。(受賞は逃す)
また、この頃からテレビ映画への出演が増えてキャリアのほとんどがテレビ映画への出演となっていきました。
1991年(84才の年)、自伝本
自伝本「Me: Stories of My Life」を発表。
ベストセラーとなり、なんと1年以上に渡って売り上げトップだったとか!
自伝中では、自身の誕生日を偽っていたことや大富豪ハワード・ヒューズとの恋愛なども告白されていますね。
ちなみに、キャサリン・ヘプバーンは、ほぼ毎朝、水泳やテニスをしていたようですが、80代になっても定期的にテニスをしていたようです。あと、後年は絵を描くことも大好きだったようです。
1992年(85才の年)
TV映画「The Man Upstairs」に出演。
監督は再びジョージ・シェーファーで、共演は、映画「ペーパー・ムーン」などで有名なライアン・オニールです!
キャサリン・ヘプバーンは、この作品でゴールデン・グローブ賞にノミネートされました。(受賞は逃す)
1994年(87才の年)
TV映画「This Can't Be Love」に出演。
この作品は、キャサリン・ヘプバーンの半自伝的な内容のTV映画だったようです。
監督は、映画「冬のライオン」や「ガラスの動物園」でもタッグを組んだアンソニー・ハーヴェイで、共演は、映画「道」や「アラビアのロレンス」で有名なアンソニー・クインや、映画「ハンコック」や「モンスター上司」、TVドラマ「ブル〜ス一家は大暴走!」などで有名なジェイソン・ベイトマンです。
キャサリン・ヘプバーンは、ジェイソン・ベイトマンとも共演していたんですね!
映画「めぐり逢い」に出演。
久しぶりの映画出演にして、最後の映画出演作となります。
監督は、映画「ピクチャー・パーフェクト」の監督やTVシリーズ「こちらブルームーン探偵社」の製作者として有名なグレン・ゴードン・キャロンで、共演は、映画「俺たちに明日はない」で有名なウォーレン・ベイティと、映画「アメリカン・プレジデント」や「アメリカン・ビューティー」で有名なアネット・ベニングでした。
ちなみに、この二人(ウォーレン・ベイティとアネット・ベニング)は1992年に結婚しています。
なお、Wikipediaによれば、この作品は、キャサリン・ヘプバーンがカメオ出演した作品を除いて、唯一、主演を演じなかった映画なんだそうです。
TV映画「One Christmas」に出演。
キャサリン・ヘプバーン最後のTV映画出演です。87才にして、全米映画俳優組合賞からノミネートされています。(受賞は逃す)
監督は、映画「スティング」のプロデューサーとしても知られるトニー・ビルで、共演は、TVドラマ「ハッピーデイズ」や「バリー」などで知られるヘンリー・ウィンクラーや、トニー賞受賞女優のスージー・カーツなどでした。
1996年(89才の年)
肺炎のため入院。
2003年(96才の年)
5月、首に腫瘍が見つかる。6月29日、心停止により死去。享年96才でした。
キャサリン・ヘプバーンは自身のお葬式はやらないでほしいと言い遺していたそうです。
キャサリン・ヘプバーンが亡くなったことは大きなニュースとなり、彼女のトリビュート特集番組がテレビで組まれたり、雑誌や新聞などでも彼女のことが取り上げられたとのこと。
また、彼女の遺言に従って、キャサリン・ヘプバーンの持ち物などはオークションにかけられ、なんと580万ドル(約5億8,000万円)ものお金になったとか。
トリビア動画
キャサリン・ヘプバーンが唯一、アカデミー賞受賞式に出席した貴重な映像(才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1973年「ディック・キャヴェット・ショー」で2時間に及ぶインタビュー番組に出演!(66才の年)↓
1982年に映画「黄昏」で4度目のアカデミー主演女優賞を受賞したキャサリン・ヘプバーンの代理を務めたジョン・ヴォイト↓
mojoが選ぶキャサリン・ヘプバーンの演技シーン、ベスト10↓
キャサリン・ヘプバーンのドキュメンタリー動画↓
1979年に放送されたキャサリン・ヘプバーンのインタビュー動画(72才の年)↓
おすすめグッズ
写真やポスターが中心です。中にはサイン入りのものもあるかも!?
映画予告編動画
代表作を新しい作品順に並べています。全作品網羅ではないです。本国版の動画を多くしています。
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