top of page

リタ・ヘイワース

Rita Hayworth
概要

生年月日:1918年10月17日 アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン

没年月日:1987年5月14日(享年68才:米国ニューヨーク州マンハッタン)

代表作:

ギルダ」(共演:グレン・フォード、監督:チャールズ・ヴィダー)

カバーガール」(共演:ジーン・ケリー、監督:チャールズ・ヴィダー)

上海から来た女」(監督・共演:オーソン・ウェルズ)

カルメン」(共演:グレン・フォード、監督:チャールズ・ヴィダー)

情炎の女サロメ」(共演チャールズ・ロートン、監督ウィリアム・ディターレ)

結婚歴:

・プロモーターの41才の男性(19才~25才の年:離婚)

・オーソン・ウェルズ(25才~29才の年:離婚:女児1人)

・パキスタンの外交官アリ・カーン王子(31才~35才の年:離婚:女児1人)

・アルゼンチンの歌手ディック・ヘイムズ(35才~37才の年:離婚)

・映画プロデューサーのジェームズ・ヒル(40才~43才の年:離婚)

出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー! 



マリリン・モンローもお手本にした愛の女神、40年代のNo1ピンナップガール
 

オーナーの一言

1940年代No1のセクシー女優リタ・ヘイワースについて、あなたはどんなイメージを持ってますか?

リタ・ヘイワースといえば、第2次世界大戦中にアメリカの兵士たちの中で最も人気のあった女優といわれているダンサーで映画スターです!

妖艶な美しさで男を惑わす、まさにファム・ファタール(魔性の女)の代名詞的な存在といえますね☆

​また、ブレイク前のマリリン・モンローは、コロンビア・ピクチャーズ社から、第2のリタ・ヘイワースになれるようにと服装や髪の色まで真似るよう指示されていたといいます。

代表作は、なんといっても出世作となった28才の時に公開された映画「ギルダ」で、共演のグレン・フォード、監督のチャールズ・ヴィダーとは他の作品でもタッグを組んでいます。

さらに、ダンスの腕も一流で、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどミュージカルスターたちとも共演を果たしています♪

私生活では、18才という若さで41才の男性と駆け落ちするように結婚していたり、監督で俳優のオーソン・ウェルズと結婚したり、パキスタンの外交官と結婚していたりと、私生活では5回の結婚歴があります。

彼女の死後7年後の1994年に公開されたの映画「ショーシャンクの空に」の中では、刑務所の中にいる主人公が壁にリタ・ヘイワースのポスターを貼っているなんていうシーンがあったくらい「愛の女神(The Love Goddess)」として絶大な人気を誇っていました。

そんなリタ・ヘイワースは、アメリカ映画協会(AFI)が選出した「映画スター ベスト100」で第19位にランクインしています☆​(ちなみに、1位はキャサリン・ヘプバーン、2位はベティ・デイヴィス、3位はオードリー・ヘプバーン)

ほぼ全出演作品リスト

ほぼ全出演作一覧


出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー!

1926年(8才の年) 映画「La Fiesta」(ショート・ムービー)
1934年(16才の年) 映画「Cruz Diablo」(エキストラ。クレジットなし)

1935年(17才の年) 映画「In Caliente(カリアンテ)」(パットオブライエン、エドワード・エヴェレット・ホートンほか)
1935年(17才の年) 映画「Under the Pampas Moon」(共演:ワーナー・バクスター、「リタ・カンシーノ」名義)
1935年(17才の年) 映画「Charlie Chan in Egypt(ピラミッドの殺人)」(共演パット・パターソン、「リタ・カンシーノ」名義)
1935年(17才の年) 映画「Dante's Inferno(ダンテの地獄篇)」(共演:スペンサー・トレイシー、「リタ・カンシーノ」名義)
1935年(17才の年) 映画「Piernas de Seda」(クレジットなし)
1935年(17才の年) 映画「Hi, Gaucho!」(クレジットなし)
1936年(18才の年) 映画「Paddy O'Day(可愛いオディ)」(共演:ジェーン・ウィザース、「リタ・カンシーノ」名義)
1936年(1
8才の年) 映画「Professional Soldier」(テイ・ガーネット、ヴィクター・マクラグレン、「リタ・カンシーノ」名義)
1936年(18才の年) 映画「Human Cargo」(共演:クレア・トレヴァー、ブライアン・ドンレヴィ、「リタ・カンシーノ」名義)
1936年(18才の年) 映画「Dancing Pirate(スタアと選手)」(共演:フランク・モーガンほか、「リタ・カンシーノ」名義)
1936年(18才の年) 映画「Meet Nero Wolfe(完全犯罪)」(共演:エドワード・アーノルドほか、クレジットなし)
1936年(18才の年) 映画「Rebellion」(共演:トム・キーン、「リタ・カンシーノ」名義)
1937年(19才の年) 映画「Old Louisiana」(共演:トム・キーン、「リタ・カンシーノ」名義)
1937年(19才の年) 映画「Hit the Saddle(荒野を駆けるカウボーイ)」(「リタ・カンシーノ」名義)
1937年(19才の年) 映画「Trouble in Texas」(共演:テックス・リッター、「リタ・カンシーノ」名義)
1937年(19才の年) 映画「Criminals of the Air」(共演:ロザリンド・キース)
1937年(19才の年) 映画「Girls Can Play」(監督:ランバート・ヒルヤー)
1937年(19才の年) 映画「The Game That Kills」(監督:D・ロス・レーダーマン)
1937年(19才の年) 映画「Life Begins with Love」(共演ジーン・パーカー、ダグラス・モントゴメリー、エディス・フェローズ)
1937年(19才の年) 映画「Paid to Dance」(共演:ジュリー・ビショップ)
1937年(19才の年) 映画「The Shadow」(監督:チャールズ・c・コールマン、チャールズ・クィグリー)
1938年(20才の年) 映画「Who Killed Gail Preston?」(監督:レオン・バーシャ、共演:ドン・テリー、ロバート・ペイジ)
1938年(20才の年) 映画「Special Inspector」(監督:レオン・バーシャ、共演:チャールズ・クィグリー)
1938年(20才の年) 映画「there's always a woman」(アレクサンダー・ホール、ジョーン・ブロンデル、メルヴィン・ダグラス)
1938年(20才の年) 映画「Convicted」(監督:レオン・バーシャ、共演:チャールズ・クィグリー)
1938年(20才の年) 映画「Juvenile Court」(監督:D・ロス・レーダーマン、共演:ポール・ケリー)
1938年(20才の年) 映画「The Renegade Ranger」(デイヴィッド・ハワード監督、ジョージ・オブライエン、ティム・ホルト)
1939年(21才の年) 映画「Homicide Bureau」(監督:チャールズ・c・コールマン、共演:ブルース・キャボット)
1939年(21才の年) 映画「The Lone Wolf Spy Hunt」(ピーターゴッドフリー監督、ウォーレン・ウィリアム、アイダ・ルピノ)
1939年(21才の年) 映画「コンドル」(監督:ハワード・ホークス、共演:ケーリー・グラント、ジーン・アーサー)
1940年(22才の年) 映画「ミュージック・イン・マイ・ハート」(監督:ジョセフ・サントリー、共演:トニー・マーティン)
1940年(22才の年) 映画「Blondie on a Budget」(共演:ペニー・シングルトン)
1940年(22才の年) 映画「Susan and God」(ジョージ・キューカー監督、フレドリック・マーチ、ジョーン・クロフォード)
1940年(22才の年) 映画「The Lady in Question」(チャールズ・ヴィダー監督、ブライアン・エイハーン、グレン・フォード)
1940年(22才の年) 映画「紐育の天使」(ベン・ヘクト監督、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、トーマス・ミッチェル)
1941年(23才の年) 映画「いちごブロンド」(ジェームズ・キャグニー、オリヴィア・デ・ハヴィランド、ジャック・カーソン)
1941年(23才の年) 映画「Affectionately Yours」(ロイド・ベーコン監督、マール・オベロン、デニス・モーガン)
1941年(23才の年) 映画「血と砂」(ルーベン・マムーリアン監督、タイロン・パワー、リンダ・ダーネル)
1941年(23才の年) 映画「踊る結婚式」(監督:シドニー・ランフィールド、共演:フレッド・アステア)
1942年(24才の年) 映画「マイ・ギャル・サル」(監督:アーヴィング・カミングス、共演:ヴィクター・マチュア)
1942年(24才の年) 映画「運命の饗宴」(シャルル・ボワイエ、ジンジャーロジャース、ヘンリーフォンダ、チャールズロートン)
1942年(24才の年) 映画「晴れて今宵は」(ウィリアム・A・サイター監督、フレッド・アステア、アドルフ・マンジュー)
1944年(26才の年) 映画「カバーガール」(監督:チャールズ・ヴィダー、共演:ジーン・ケリー)
1945年(27才の年) 映画「今宵よ永遠に」(監督:ヴィクター・サヴィル、共演:リー・ボウマン、ジャネット・ブレア)
1946年(28才の年) 映画「ギルダ」(監督:チャールズ・ヴィダー、共演:グレン・フォード)
1947年(29才の年) 映画「地上に降りた女神」(監督:アレクサンダー・ホール、共演:ラリー・パークス)
1947年(29才の年) 映画「上海から来た女」(監督:オーソン・ウェルズ、共演:オーソン・ウェルズ)
1948年(30才の年) 映画「カルメン」(監督:チャールズ・ヴィダー、共演:グレン・フォード)
1952年(34才の年) 映画「醜聞(スキャンダル)殺人事件」(監督:ヴィンセント・シャーマン、共演:グレン・フォード)
1953年(35才の年) 映画「情炎の女サロメ」(ウィリアム・ディターレ、チャールズ・ロートン、スチュワート・グレンジャー)
1953年(35才の年) 映画「雨に濡れた欲情」(監督:カーティス・バーンハート、共演:ホセ・フェラー、アルド・レイ)
1957年(39才の年) 映画「海の荒くれ」(共演:ロバート・ミッチャム、ジャック・レモン)
1957年(39才の年) 映画「夜の豹」(共演:フランク・シナトラ、キム・ノヴァク、ジーン・ケリー)
1958年(40才の年) 映画「旅路」(バート・ランカスター、デボラ・カー、デヴィッド・ニーヴン)
1959年(41才の年) 映画「コルドラへの道」(監督:ロバート・ロッセン、共演:ゲイリー・クーパー)
1959年(41才の年) 映画「The Story on Page One」(監督:クリフォード・オデッツ、共演:アンソニー・フランシオサ)
1961年(43才の年) 映画「楽しい泥棒日記」(監督:ジョージ・マーシャル、共演:レックス・ハリソン、アリダ・ヴァリ)
1964年(46才の年) 映画「サーカスの世界」(ヘンリー・ハサウェイ監督、ジョン・ウェイン、クラウディア・カルディナーレ)
1965年(47才の年) 映画「銭の罠」(監督:バート・ケネディ、共演:グレン・フォード、ジョゼフ・コットン)
1966年(48才の年) TV映画「悪のシンフォニー」(テレンス・ヤング監督、グレース・ケリー、ユル・ブリンナーほか)
1967年(49才の年) 伊映画「残虐の掟」(監督:テレンス・ヤング、共演:アンソニー・クイン、ロザンナ・スキャフィーノ)
1968年(50才の年) 伊映画「バスタード」(監督:ドゥッチョ・テッサリ、共演:ジュリアーノ・ジェンマ)
1970年(52才の年) 仏映画「渚の果てにこの愛を」(監督:ジョルジュ・ロートネル、共演:ミムジー・ファーマー)
1970年(52才の年) 映画「The Naked Zoo」(監督:ウィリアム・グレーフェ、共演:ステファン・オリバー)
1971年(53才の年) TV「キャロル・バーネット・ショー」(ゲスト出演:S4-20、キャロル・バーネット、ヴィッキーローレンス)
1971年(53才の年) TV「ラフ・イン」(ゲスト出演:S5-3、ダン・ローワン、ディック・マーティン)
1972年(54才の年) 映画「サンタマリア特命隊」(監督:ラルフ・ネルソン、共演:ロバート・ミッチャム)
オーナー厳選作品

 
 
オーナー厳選作品のご紹介

 

リタ・ヘイワース出演映画の中から、当サイトのオーナーがオススメする作品を、何本かご紹介します☆

まずは、映画「ギルダ」(1946:gilda)です!

リタ・ヘイワースが28才の年に公開された作品

なんといっても、リタ・ヘイワースの出世作と言える作品で、まるでマリリン・モンローのような服装でセクシーなダンスを披露してくれています。

考えてみたら、マリリン・モンローはコロンビア・ピクチャーズ社から、第2のリタ・ヘイワース女優にしようと服装や髪の色まで真似させたというので、リタ・ヘイワースこそが元祖マリリンと言えますね(笑)

監督は映画「カバーガール」や「カルメン」でもタッグを組んだチャールズ・ヴィダーで、共演は、映画「カルメン」や「醜聞(スキャンダル)殺人事件」などでもタッグを組んだグレン・フォードです。

​グレン・フォードとは実に5本の作品で共演をしているほか、グレン・フォードの息子によると、2人は私生活でも長年に渡って交際したり別れたりしていた仲だったとか。

ちなみに、「ギルダ」で踊っているリタ・ヘイワースは、マイケル・ジャクソンの映画「THIS IS IT」の中にも登場して、CG合成を駆使した共演を果たしています。

出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー! 

↑予告編を見つけられなかったので、左がAmazonプライム・ビデオ、右がDVDへのリンクを紹介しておきます。

2作目は、映画「カバーガール」(1944:Cover Girl)です!

リタ・ヘイワースが26才の年に公開された作品。

監督は、映画「ギルダ」や「カルメン」でもタッグを組んだチャールズ・ヴィダーで、

共演は、映画「雨に唄えば」や「巴里のアメリカ人」などで知られる大スター、ジーン・ケリーです!

リタ・ヘイワースは、まさに歌って踊れるセクシーな女優ということで、まるでジンジャー・ロジャースとマリリン・モンローを足して2で割ったような女優ですね!

カラー映画なので、観てるだけで元気が出てきそうなくらい色合いがカラフルでとっても綺麗です。

本作のミュージカルシーンの中には、あ!これマリリン・モンローの「紳士は金髪がお好き」で似たようなシーンがあったな!と思わせるような場面がいつくかありました。さすが、マリリンがお手本にするよう指示された女優リタ・ヘイワースです。

出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー! 

(↑予告編を見つけられなかったので、リタ・ヘイワース自身が本作のためにTVでプロモーションした際の映像をどうぞ)

3作目は、映画「情炎の女サロメ」(1953:Salome)です!

リタ・ヘイワースが35才の年に公開された作品。

監督は、映画「ゾラの生涯」や「恋の十日間」などで知られるウィリアム・ディターレで、

共演は、映画「人生は四十二から」や「戦艦バウンティ号の叛乱」で有名な名優チャールズ・ロートンなどです。

この映画でのリタ・ヘイワースの舞いはすごくドキドキしました。作中での重要なパートでもあったからか、よりセクシーで、妖艶な踊りに感じました

原作は大好きな作家の一人でもあるオスカー・ワイルドの戯曲のみだと思っていたのですが、実は話のネタとしては、そもそも新約聖書にサロメの物語として書かれていたのですね。

ちなみに本作は2022年10月現在、アマゾンのプライム・ビデオで視聴できました。プライム会員は無料で観放題です。私もプライムビデオで観ましたよ☆

出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー! 

4作目は、映画「醜聞(スキャンダル)殺人事件」(1952)です!

リタ・ヘイワースが34才の年に公開された作品。

監督は、映画「ドン・ファンの冒険」や「都会のジャングル」などで知られるヴィンセント・シャーマン

共演は、映画「ギルダ」や「カルメン」でも共演したグレン・フォードです。

サスペンス映画でリタ・ヘイワースの演技を観たい方にはオススメ。すこし大人な衣装が多かった印象の本作ですが、何を着ても彼女はやっぱり綺麗でした(笑)

ちなみに本作は2022年10月現在、アマゾンのプライム・ビデオで視聴できました。プライム会員は無料で観放題です。私もプライムビデオで観ましたよ☆

出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー! 

このコーナーで紹介しきれなかった膨大な数の映画やTVドラマについては、下記にある予告編動画の紹介コーナーで探してみてくださいね!

ざっくり生い立ち

 

 

 

ざっくりと生い立ちをご紹介

1918年10月17日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン生まれ

本名は、マルガリータ・カルメン・カンシーノで、両親はともにダンサーです。弟が2人います。

父親のエドゥアルド・カンシーノは、スペイン系アメリカ人のダンサーで俳優。

母親のヴォルガ・ヘイワースは、イギリス・アイルランド系のアメリカ人ダンサーで、ヴォードヴィリアン。ブロードウェイでは人気のショーガールで、ジーグフェルド・フォリーズの一員でもあったようです。

また、母方のおじにあたる人物も、ヴィントン・ヘイワースという俳優。

 

さらに父方の祖父はアントニオ・カンシーノという非常に有名なボレロ・ダンサーで、マドリードにダンススクールを開いており、世界的に有名な学校とのことです。

 

1921年(3才の年)、ダンスレッスン開始!

母親はリタ・ヘイワースを女優にしたくて、父親はダンサーになってほしいと思っていたようです。リタ・ヘイワースが3才半で立てるようになってからすぐに祖父からダンスのレッスンを受けていたというから年季が違いますね(笑)

​しかし、実はその頃は、あまりダンスのレッスンが好きじゃなかったらしいです。しかし父親にそのことを言う勇気が持てずに、結局、少女時代はダンスづけだったようです。

1922年(4才の年)、ブロードウェイ・デビュー

5才以前には、ブロードウェイで家族4人と一緒に「The Greenwich Village Follies」に出演したこともあったそうです。

1926年(8才の年)、短編映画デビュー

8才の時には、ワーナー・ブラザースの短編映画「La Fiesta」にも出演を果たしているとのことです。

1927年(9才の年)、ハリウッドへ引越し

父親が映画の中でダンスというのはひとつの見せ場になるに違いないと確信。さらに、家族で出演できるとにらみ、一家でハリウッドへ移り、そこでダンススクールを開きます。

そのダンススクールには、映画「民衆の敵」などで知られる俳優のジェームズ・キャグニーや、映画「地獄の天使」や「サラトガ」「晩餐八時」などで有名な女優ジーン・ハーロウを教えていたというからスゴイですよね!

1931年(13才の年)、プロのダンサーとして父のパートナーに

12才の時には、髪の毛を茶色から黒く染めて、父親と一緒に「The Dancing Cansinos」という名前でパートナーを組みます。

この頃のリタ・ヘイワースの写真がウィキペディアに載っているのですが、もうすっかり大人のように見えてビックリしますよ(笑)

ただし、カリフォルニア州では法律的にナイトクラブやバーなどで働くことができなかったため、父親は、メキシコのティフアナという都市にリタ・ヘイワースを連れていき稼ぎます。

リタ・ヘイワースは、ダンサーとして働いていたため、高校を卒業していませんでしたが、ロサンゼルスにある学校で中学までは卒業したようです。

あと、Wikipediaによると、この頃に父親から性的虐待を受けていて、後に2番目の夫となるオーソン・ウェルズに打ち明けていたとか。また、リタ・ヘイワースの伝記作家の女性は、母親が彼女を守るために同じベッドに入って父親から守っていたようです。事実だとしたら、かなりショッキングな​出来事ですね。。。

1934年(16才の年)、メキシコ映画に出演

メキシコ映画の「Cruz Diablo(クルスディアブロ)」に、小さい役ながら出演。

1935年(17才の年)、フォックス・フィルム社と契約

クラブで踊っていたリタ・ヘイワースを、20世紀フォックスの前身にあたるフォックス・スタジオ社の社長で、映画プロデューサーでもあったウィンフィールド・シーハンが見初めて6ヶ月という短い期間の契約を結びます。

この際、本名のマルガリータ・カルメン・カンシーノという名前から、「リタ・カンシーノ」という女優名に変更します。リタ・ヘイワースは芸名を2度変更していますが、その1回目の名前ということになりますね。

そして、アメリカのミュージカル映画「In Caliente(カリアンテ)」にも小さい役ながら出演。

この作品の監督は、チャップリン映画へ俳優として出演した後、映画「四十二番街」や「札つき女」などで知られるロイド・ベーコンで、主演はメキシコ出身の人気女優ドロレス・デル・リオ。

そのほかにも、出演者には、映画「汚れた顔の天使」や「犯罪都市」などで知られるパット・オブライエン、そして、映画「コンチネンタル」や「青髭八人目の妻」「生活の設計」で知られるエドワード・エヴェレット・ホートンなどがいました。

同年、映画「Dante's Inferno(ダンテの地獄篇)」にも共演してダンスを披露しています。

本作は、キャサリン・ヘプバーンの名パートナーとしても有名な、映画「招かれざる客」や「花嫁の父」で知られる俳優のスペンサー・トレイシーが主演を務めました。

また、映画「Under the Pampas Moon」へも出演して、初めてのセリフ付きの役柄を演じます。

映画「四十二番街」や「懐しのアリゾナ」などで知られるワーナー・バクスターや、映画「踊らん哉」などへの出演でも知られるフランスの女優ケティ・ガリアンなどが出演しています。

さらに、リタ・ヘイワース(リタ・カンシーノ)は、映画「Charlie Chan in Egypt(ピラミッドの殺人)」にも共演して、エジプト人の役を演じています。

本作には、スウェーデン系アメリカ人のワーナー・オーランドや、俳優シャルル・ボワイエの妻として知られるイギリスの女優パット・パターソンなどが出演していました。

また、この年の5月31日に、フォックス・フィルム社は、20世紀ピクチャーズ社と合併して、20世紀フォックスとなります。

1936年(18才の年)、コロンビア映画と契約し、女優名をリタ・ヘイワースに変更

映画「Paddy O'Day(可愛いオディ)」に共演して、ロシア人ダンサー役を演じます。

主演は、アメリカの人気子役で映画「ジャイアンツ」への出演などでも有名なジェーン・ウィザースでした。

ちなみに、20世紀フォックスとして合併する前までは、リタ・ヘイワースを見出してくれたプロデューサーのシーハンが、彼女をスターにしようと映画「ラモナ」などへキャスティングするよう画策していたようですが、

合併後には新しいプロデューサーのダリル・F・ザナックが、映画「ラモナ」の主演にロレッタ・ヤングという女優をキャスティングしてしまい、さらに契約の期限がきた際にも契約を延長せずに終わらせてしまいます。

 

余談ですが、この映画の主演俳優は、ドン・アメチーです。

そして、この年、リタ・ヘイワースの才能を見出していたセールスマンでプロモーターのエドワード・C・ジャドソンと知り合います。

​彼は、彼女のために映画出演のための役をいくつか獲得してくれて、小さな役ですが、コロンビア・ピクチャーズ社の映画「Meet Nero Wolfe(完全犯罪)」への出演なども果たしています。

この映画の監督は、映画「地の塩」などで知られ、ハリウッドの赤狩り時代には証言を拒否してダルトン・トランボらと同様、ブラックリストに載ったこともあるハーバート・ビーバーマンです。

主演は、映画「我が家の楽園」や「スミス都へ行く」「群集」などで知られるエドワード・アーノルドでした。

そして、なんと、コロンビア・ピクチャーズ社のトップだったハリー・コーンが、リタ・ヘイワースと7年契約を結んでくれて、バックアップしてくれるようになります!

その際、ハリー・コーンは彼女の名前があまりにも外国人ぽい響きがあるので、役柄の幅が限られてしまうとアドバイスし、「リタ・ヘイワース」という女優名に変更します。これが2度目の名前変更になります。ちなみに、ヘイワースというのは母親の旧姓になりますね。

​また、ハリー・コーンとエドワード・C・ジャドソンの助言に従い、リタ・ヘイワースは自身の髪の色を濃い赤毛に染め、生え際を上げて額を広くするために、電流で毛根を破壊する電気分解療法も施しています。

マリリン・モンローもそうですが、リタ・ヘイワースも、もともとは茶色だった髪を12才で黒く染めて、今度は赤毛に染めるという涙ぐましい努力をしていたのですね。

1937年(19才の年)、22才年上のプロモーターと駆け落ち!

この年、リタ・ヘイワースは、彼女の才能をかってエージェントとして尽力してくれていた、元石油業者のエドワード・C・ジャドソンと、なんと18才にして駆け落ちします!

 

二人の年齢差は22才もあり、当時18才だったリタ・ヘイワースは、当時41才の年になるこの男性とラスベガスで結婚します。

その後、コロンビア・ピクチャーズの5本のマイナー映画や、3本の独立系映画作品などになどに出演。さらに翌年にはコロンビア・ピクチャーズの5本のB級映画に出演するなどして経験を積んでいきます。

1939年(21才の年)、映画「コンドル」で大スター達と共演

ついに映画「コンドル」で大スターのケイリー・グラント、そしてジーン・アーサーと共演します。(AmazonPrimeでプライム会員 無料で見放題の対象:2022/11)

監督は、映画「紳士は金髪がお好き」や「ヒズ・ガール・フライデー」で知られるハワード・ホークスで、主演は、映画「シャレード」や「北北西に進路を取れ」「フィラデルフィア物語」などで有名な人気俳優ケーリー・グラントと、映画「スミス都へ行く」や「我が家の楽園」などで有名な人気女優ジーン・アーサーでしたが、

リタ・ヘイワースも重要な役で特にケーリー・グラントとの共演シーンを設けてもらっています。この時のリタ・ヘイワースは、パッと目につく美人という感じで、すごく綺麗でした。

また、本作には、映画「駅馬車」や「素晴らしき哉、人生!」「風と共に去りぬ」などで有名な俳優トーマス・ミッチェルも出演しています。

なかなか面白い作品で、無謀な飛行機乗りの男たちの仕事ぶりと、それを見守る女たちの気苦労などが描かれています。


1940年(22才の年)、一気にスターダムを駆け上がる

昨年の「コンドル」以降、いよいよ人気映画への怒涛の出演ラッシュが始まります!

主要な出演作品を挙げておきますね。

映画「ミュージック・イン・マイ・ハート」に出演。

監督は、映画「ココナッツ」や「町一番のちゃっかり娘」で知られるジョセフ・サントリーで、共演は、映画「艦隊は踊る」や「イージー・トゥ・ラブ」「美人劇場」などへの出演で知られるトニー・マーティンです。

映画「Susan and God」に出演。

監督は、映画「マイ・フェア・レディ」や「フィラデルフィア物語」「スタア誕生」などで知られる巨匠ジョージ・キューカーで、共演は、映画「我等の生涯の最良の年」や「ジキル博士とハイド氏」「生活の設計」などで知られる人気スターのフレドリック・マーチ、そして、映画「グランド・ホテル」や「何がジェーンに起ったか?」などで知られるジョーン・クロフォードです!

すごく豪華なキャスティングですね!

映画「The Lady in Question」に出演。

 

監督は、映画「ギルダ」や「カルメン」「楽聖ショパン」などで知られるチャールズ・ヴィダーで、

共演は、映画「ギルダ」や「カルメン」などでも共演することになる俳優グレン・フォードと初共演しています。

リタ・ヘイワースは、グレン・フォードとは合計5本の映画で共演したほか、wikipediaによると、映画「ギルダ」で共演して以来、2人は私生活でも、実に40年あまりにも渡って、恋仲になったり別れたりしていた仲だったそうです。

でも、その頃はたしかオーソン・ウェルズと結婚していたと思うのですが…(汗)

また、グレン・フォードの死後、彼の息子が出版したグレン・フォードの自伝本によると、映画「カルメン」でリタ・ヘイワースとグレン・フォードが共演した際には、撮影時期にグレン・フォードの子を妊娠までしていたようで、この時は、フランスへ行って中絶をしたとのこと。本当だったら、かなり波乱万丈ですね!

また、リタ・ヘイワースが5回の結婚と離婚を経た後、1960年代(リタ・ヘイワースが40代の頃)には、グレン・フォードは、リタ・ヘイワースの隣の家に引越しをして長年恋仲にあったとのこと。しかも、その間、グレン・フォードは2度程、別の女性と結婚しています…なかなか複雑な関係ですね(汗)2人の関係は1980年代初頭頃まで続いていたとみられています。

映画「紐育の天使」に出演。

 

監督は、映画「暗黒街の顔役」での脚本や「犯罪都市」「ヒズ・ガール・フライデー」の原作を手がけたことなどで知られる、小説家で脚本家でもあるベン・ヘクト。

共演は、ダグラス・フェアバンクスの息子で、女優ジョーン・クロフォードの元夫として知られるダグラス・フェアバンクス・ジュニアや、映画「駅馬車」や「素晴らしき哉、人生!」「風と共に去りぬ」などへの出演で知られるトーマス・ミッチェルです。

1941年(23才の年)、人気女優として活躍(フレッド・アステアとも共演)

この頃に、初めてLIFE誌の特集記事として取り上げられました。その際の写真を上(一番左)に紹介しておきますが、wikipediaにも載っています。この頃のリタ・ヘイワースは、綺麗で、そしてまだ少し、あどけなさも残っていて可愛らしいですね♪

この写真は大変な人気を呼び、第2次世界大戦時のアメリカ兵たちの多くが持ち歩いたり壁に貼ったりしていたとか。今でいうところのプロマイド写真のような感覚かなと思うのですが、ピンナップガールと呼ぶそうです。そして、この時期のピンナップガールとしては、リタ・ヘイワースと女優ベティ・グレイブルが2大人気スターだったみたいです

余談ですが、この写真を撮影した際に着用していたサテン素材のナイトガウンは、2002年に約270万円程の値がついたそうです。

コロンビアからワーナーブラザーズへ貸し出していた期間には、映画「いちごブロンド(The Strawberry Blonde)」に出演。

本作では主要キャラクターの1人を演じ、映画「風と共に去りぬ」でのメラニー役や「遥かなる我が子」「女相続人」などで知られる人気オスカー女優のオリヴィア・デ・ハヴィランドと共演。

他にも、映画「民衆の敵」や「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」で知られるジェームズ・キャグニーや、映画「ミルドレッド・ピアース」や「洋上のロマンス」「スタア誕生」などで知られるジャック・カーソンなどが出演しています。

監督は、映画「バグダッドの盗賊」や「ハイ・シェラ」「彼奴は顔役だ!」などで知られるラオール・ウォルシュです。

ワーナー映画「Affectionately Yours」に出演。

監督は、チャップリン映画へ俳優として出演した後、映画「四十二番街」や「札つき女」などで知られるロイド・ベーコンで、

共演は、映画「嵐が丘」でのヒロイン役や、「楽聖ショパン」でのジョルジュ・サンド役などで知られるインドとイギリスのハーフ女優マール・オベロンや、映画「クリスマス・イン・コネチカット」や「恋愛手帖」などで知られるデニス・モーガン。

さらに、映画「ヒズ・ガール・フライデー」や「新婚道中記」「プリティ・ウーマン」「大逆転」「星の王子ニューヨークへ行く」などで知られるラルフ・ベラミーや、映画「模倣の人生」や「風と共に去りぬ」で知られるハティ・マクダニエルなども出演していました。

小説が原作でアカデミー撮影賞に輝いた恋愛映画「血と砂」(20世紀フォックス配給)に出演。

監督は、映画「ジキル博士とハイド氏」や「快傑ゾロ」などで知られるルーベン・マムーリアンで、

共演は、映画「情婦」や「快傑ゾロ」などで知られるタイロン・パワーや、映画「快傑ゾロ」や「三人の妻への手紙」で知られるリンダ・ダーネル、そして映画「道」や「アラビアのロレンス」「革命児サパタ」などで知られるアンソニー・クインなどが出演していました。

そして、すっかり女優となったリタ・ヘイワースは、コロンビア・ピクチャーズへ戻ってきて、

映画「踊る結婚式」でヒロインを務めます!

監督は、本作や映画「シャーロック・ホームズ バスカヴィル家の犬」、「腰抜け顔役」などでも知られるシドニー・ランフィールドで、共演は、なんと、ダンサーで俳優という、映画「トップ・ハット」や「有頂天時代」「イースター・パレード」などで知られる大スターのフレッド・アステアです!!

フレッド・アステアのパートナーといえば、なんと言ってもジンジャー・ロジャースが思い浮かびますが、彼らがタッグを組んでいたのは1930年代で、この時期にはすでに9本の映画でコンビを組んだ後、ジンジャー・ロジャースがアステアとのミュージカル映画から離れて、演技派女優としてドラマ映画やコメディ映画などにも進出し始めた頃ですね。

フレッド・アステアとしては、まさにポスト・ジンジャー・ロジャースを見つけたという感じでしょうか?実際、リタ・ヘイワースのダンスについてはアステアもベタぼめだったようです。

 

もっとも、リタ・ヘイワースとフレッド・アステアが組んだのは2作のみで、その後アステアは、ジョーン・レスリー、ジュディ・ガーランド、オードリー・ヘプバーンらと共演し、また、再度ジンジャー・ロジャースとも共演しています。

本作「踊る結婚式」に話を戻すと、本作の音楽は、アメリカを代表する作曲家のコール・ポーターが担当しています。コール・ポーターと言えば、今やジャズのスタンダードナンバーとなった曲「I've Got You Under My Skin」や「ナイト・アンド・デイ」などが有名ですね。

本作は、大規模な予算が組まれ、大ヒットを記録!コロンビア・ピクチャーズは、翌年にも、2人が主演の映画を製作します。(「晴れて今宵は」)

1942年(24才の年)、フレッド・アステアと2度目の共演&プロモーターの男性と離婚

映画「マイ・ギャル・サル」に主演

 

監督は、映画「懐しのアリゾナ」や「テンプルの福の神」で知られるアーヴィング・カミングスで、共演は、映画「荒野の決闘」や「死の接吻」などで知られるヴィクター・マチュアです。

映画「運命の饗宴」に出演。(AmazonPrimeでプライム会員 無料で見放題の対象:2022/11)

この映画は、複数の作品で構成されたオムニバス映画になります。

リタ・ヘイワースは、映画「ガス燈」や「邂逅(めぐりあい)」などで知られるフランス出身の有名俳優シャルル・ボワイエと共演しています。

本作の別の話では、ジンジャー・ロジャースや、ヘンリー・フォンダ、チャールズ・ロートン、エドワード・G・ロビンソンなど、そうそうたるスターたちが出演しています。

監督は、同じくスターたちが共演したアンソロジー映画「肉体と幻想」も手がけた、フランスの映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエです。

そして、昨年の大ヒット映画「踊る結婚式」に続いて、ふたたびフレッド・アステアと共演した映画「晴れて今宵は」に出演!

 

これがフレッド・アステアとの最後の共演となりますね。もっと、たくさん共演すればよかったのにと思ってしまうのですが、なんで2作しか共演しなかったんでしょうかね~?

監督は、映画「ロバータ」や「テンプルちゃんのえくぼ」で知られるウィリアム・A・サイターで、共演は、他にもチャップリン映画「巴里の女性」への出演や、映画「スタア誕生」「犯罪都市」などへの出演で知られるアドルフ・マンジューなどがいました。

私生活では、この年に駆け落ちの末に結ばれたプロモーターの年上男性と離婚に至っています。約6年程の結婚生活でした。

また、Wikipediaによると、映画「マイ・ギャル・サル」で共演したヴィクター・マチュアとは、恋の噂があったようです。

1943年(25才の年)、オーソン・ウェルズと結婚

本年に、映画「市民ケーン」や「第三の男」などで知られる俳優で監督のオーソン・ウェルズと結婚します。結婚することは直前まで周りの人にも内緒にしておいたようで、ベストマン(日本でいうところの付添い人か友人代表みたいな感じの人)は、オーソン・ウェルズ映画の常連でもあった俳優のジョゼフ・コットンが務めたようです。

簡単に式を済ませた後、なんと数時間後には2人とも仕事をするためにスタジオへ戻ったということです。

1944年(26才の年)、ジーン・ケリーとも共演

本年には、映画「カバーガール」に主演して、トップダンサーで人気スターだったジーン・ケリーと共演しています!

ジーン・ケリーと言えば、映画「雨に唄えば」や「巴里のアメリカ人」「踊る大紐育」などで知られる、フレッドアステアと人気を2分していたスーパースターですね。ジーン・ケリーのほうがアステアより13才年下になります。

余談ですが、ジーン・ケリーと、フレッド・アステアの2人の共演は意外にも2作(しかも「ジーグフェルド・フォリーズ」と「ザッツ・エンタテインメント PART2」どちらもオールスター映画)しかありません。

話しを本作、映画「カバーガール」に戻すと、監督は、映画「ギルダ」や「カルメン」でもタッグを組んだチャールズ・ヴィダーでした。

本作は、アカデミーミュージカル映画音楽賞を受賞しています。

リタ・ヘイワースは、この映画でコロンビア・ピクチャーズの看板女優としての地位を手に入れ、高額なギャランティも手にすることができました。

しかし、同時に、この頃からコロンビア映画と、そのトップであるハリー・コーンとは意見の対立が目立つようになります。

 

Wikipediaによると、ヘイワースは、ハリー・コーンが彼女を会社の所有物であるかのように扱い、契約で縛り、彼女に投資した多額の金銭を理由に、独占して、恋人を作ることや友人を作ることさえも疎ましく感じていたとのこと。

ちなみに、彼女は8作の映画出演で8回髪の色を変えたこともあったとか。ヘイワースはコロンビア社を訴えたこともあったようで、後年にはハリー・コーンはモンスターだとまで語り、結局長年に渡って対立を繰り返していたようです。

そしてオーソン・ウェルズによると、リタ・ヘイワースは怒りを抑えるために、よく家具を壊したり、車に乗って無謀な運転をしたりするほか、日常的に飲酒をするようになってしまっていたようです。

ところで、リタ・ヘイワースは、フレッド・アステアとジーン・ケリーという、アメリカを代表する名ダンサーでトップスターだった二人の両方と共演を果たしたということですね!スゴイ!

彼女自身も、後に「人生の中で一番宝石みたいな出来事だったのは、フレッド・アステアと共演した作品、そして(ジーン・ケリーと共演した)「カバーガール」だ」と語っているようです。

ちなみに、フレッド・アステアとジーン・ケリーの両方と共演を果たした女優は6人で、リタ・ヘイワースのほかには、

 

映画「イースター・パレード」や「サマー・ストック」で2人と共演した伝説の人気女優ジュディ・ガーランド、

映画「雨に唄えば」や「土曜は貴女に」で2人と共演した、キャリー・フィッシャーの母親としても有名なデビー・レイノルズ、

映画「土曜は貴女に」や「踊る大紐育」で2人と共演したヴェラ=エレン、

映画「バンド・ワゴン」や「ブリガドーン」で2人と共演したシド・チャリシー、

そして映画「巴里のアメリカ人」や「足ながおじさん」で2人と共演したレスリー・キャロンになります。

​また、この年の12月には2番目の夫オーソン・ウェルズとの間に娘が1人生まれています。

1945年(27才の年)、トップ女優としてさらに躍進

映画「今宵よ永遠に(Tonight and Every Night)」に出演。

監督は、映画「銀の盃」などでも知られるイギリスの映画監督ヴィクター・サヴィルで、

共演は、映画「夢はあなたに」や「邂逅(めぐりあい)」などで知られ映画「カバーガール」でも共演したリー・ボウマンや、ミュージカル舞台「南太平洋」への出演などで知られるジャネット・ブレアです。

1946年(28才の年)、トップスターとして大ブレイク!

映画「ギルダ」に出演!

この映画はリタ・ヘイワースの代表作とも出世作とも言われる有名な作品。

どことなくセクシーな衣装や身のこなしなどがマリリン・モンローっぽいです。というか、マリリンが後にお手本としたのですが(笑)

また、劇中一番の見せ場でもある「Put the Blame on Mame」という歌を歌いながら踊るシーンでは、片方の腕からグローブを脱ぐだけなのですが、めちゃくちゃセクシーです。手袋脱ぐだけで、スゴすぎませんか?(笑)

 

このシーンはとても有名で、リタ・ヘイワースを魔性の女(ファムファタール)として一躍有名にしました。

監督は、映画「カバーガール」や「カルメン」でもタッグを組むチャールズ・ヴィダーで、

共演は、映画「醜聞(スキャンダル)殺人事件」や「カルメン」でもタッグを組み、私生活でも交際の噂があったグレン・フォードです。

そうそう、あとこの映画があまりにヒットしたため、当時マーシャル諸島のビキニ環礁という場所で原子核爆弾の実験が行われた際には、爆弾の名前が「ギルダ」と名づけられ、さらに爆弾の内側にリタ・ヘイワースの写真まで貼り付けられたという噂が出回ったそうです。

 

すごくセクシーな女性のことを、本来は爆弾という意味のbombshell(ボムシェル)ともスラング的に言いますからね。そこにかけての命名だったのかもしれませんね。

 

リタ・ヘイワースはこの出来事にひどく気分を害し、猛烈に怒っていたそうで、あわやワシントンまで行って記者会見を開こうかと考えてさえいたようです。当時の夫だったオーソン・ウェルズがこれをなんとかなだめたとか。

1947年(29才の年)、オーソン・ウェルズと共演&離婚

映画「地上に降りた女神」に出演。

監督は、映画「幽霊紐育を歩く」などでも知られるアレクサンダー・ホールで、共演は、映画「ジョルスン物語」で知られるラリー・パークスです。そのほか、映画「コンチネンタル」や「トップ・ハット」「青髭八人目の妻」「生活の設計」などで知られるエドワード・エヴェレット・ホートンなども出演しています。

映画「上海から来た女」に出演。

監督と共演は、当時リタ・ヘイワースの2番目の夫でもあったオーソン・ウェルズです。

本作は、評論家からは高い評価を得ましたが、興行成績は芳しくなかったとのこと。

人気が出なかった理由としては、なんと、この作品のためにばっさりとショートカットにして、さらに自慢の赤毛を金髪にしてしまったためだと言われています。

さらに、この大胆なイメチェンについて、コロンビア・ピクチャーズの社長ハリー・コーンにまったく相談していなかったためハリー・コーンは激怒したそうです。

また、​私生活では、「Life」誌に再び特集されて、有名な「The Love Goddess(愛の女神)」というニックネームをつけられています。

​そして、2番目の夫だったオーソン・ウェルズと11月に離婚を申請しています。約4年間の結婚生活でした。正式には翌年に成立したようです。

結婚生活では、家庭をつくりたいと願っていたリタ・ヘイワースに対して、オーソン・ウェルズは自由を縛られたくないという想いが強く、うまくいかなかったようです。

1948年(30才の年)、

映画「カルメン」に出演。(AmazonPrimeでプライム会員 無料で見放題の対象:2022/11)

監督は、映画「ギルダ」や「カルメン」「楽聖ショパン」などで知られるチャールズ・ヴィダーで、

共演は、公私ともにパートナーで映画「醜聞(スキャンダル)殺人事件」や「ギルダ」などでも共演したグレン・フォードです。

また、この頃に、娘のレベッカにちなんだ「The Beckworth Corporation(ザ・ベックワース・コーポレーション)」という製作プロダクションを設立して、この映画では、初のコロンビア映画と共同製作に挑戦しています。

結果的に、この映画は大ヒットして、リタ・ヘイワースは、コロンビア・ピクチャーズから、25万ドル(約2,500万円)のギャランティと、それに加えて、50%の収益マージンを受け取る契約を交わしています。

マージンのパーセンテイジはわかりませんが、収益の何割かをもらうというスタイルは、これ以降も1954年まで続けたそうです。ただし、その後にザ・ベックワース・コーポレーションは解散しています。

私生活では、この頃に、旅先のカンヌで、アリ・カーン王子に紹介され、交際をスタート。

アリ・カーン王子は、イスラム教ホージャー派の指導者で政治家のアガ・ハーン3世の息子で、パキスタンの外交官でもあったそうです。

1949年(31才の年)、王子と結婚。ハリウッドからフランスへ

約1年の交際の末、5月27日にアリ・カーン王子と結婚。

結婚に伴って、コロンビア社との契約を破棄して、ハリウッドからフランスへ移ります。

なんだかグレース・ケリーのようですね。

というか、実はハリウッド女優からプリンセスとなった第1号は、何を隠そうリタ・ヘイワースです!

ただし、ハリウッドを去ったということなどで批判されることもあったようで、一部のアメリカのファンたちからは映画鑑賞をボイコットされたりもしたようです。

余談ですが、リタ・ヘイワースの嫁入り道具一式は、フランスの人気ファッションデザイナーだったジャック・ファットがデザインしたそうです。

ジャック・ファットと言えば、曾祖母がナポレオン3世の皇后のおかかえデザイナーだったことでも知られ、香水なども発表しています。また、ジャック・ファットのアシスタントだった人物の中には、ジバンシィや、ヴァレンティノなどがいたそうです。

12月28日、リタ・ヘイワースは、娘のプリンセス・ヤスミン・アガ・カーンを出産しています。

1951年(33才の年)、アリ・ハーン王子と別居。

プリンセスとしての生活になかなかなじめず、フランス語の習得もなかなかうまくいかず、さらに、wikipediaによると、プレイボーイだったとも噂されていた夫が、ナイトクラブで女優のジョーン・フォンテインと踊っていたところを見つけられたりもして、結局、リタ・ヘイワースは、2人の娘と一緒に、アメリカへ渡り、別居を開始したそうです。

そして、9月2日に離婚届を申請。申請理由としては、「夫は生まれながらの非情な人物であるため」とのことです。この申請は2年後の1953年にようやく認められます。

1952年(34才の年)、ハリウッドでコロンビア映画に復帰

結婚生活が破綻した後、リタ・ヘイワースは再び映画女優としてコロンビア・ピクチャーズへ戻り、映画「醜聞(スキャンダル)殺人事件」に出演します。(AmazonPrimeでプライム会員 無料で見放題の対象:2022/11)

久しぶりのリタ・ヘイワース主演映画ということもあって、Wikipediaによると、この作品は大ヒットした「ギルダ」以上の興行成績を上げ、100万ドル(約1億円)の総利益をたたきだしたようです。

監督は、映画「ドン・ファンの冒険」や「都会のジャングル」などで知られるヴィンセント・シャーマン

共演は、映画「ギルダ」や「カルメン」でも共演したグレン・フォードです。

1953年(35才の年)、3度目の離婚&4度目の結婚

アリ・ハーン王子と離婚。約4年間の結婚生活にピリオド。

映画「情炎の女サロメ」に出演。(AmazonPrimeでプライム会員 無料で見放題の対象:2022/11)

監督は、映画「ゾラの生涯」や「旅愁」で知られるウィリアム・ディターレで、

共演は、映画「戦艦バウンティ号の叛乱」や「情婦」「人生は四十二から」で知られる名優チャールズ・ロートンです。

 

個人的には、この映画でリタ・へイワースが1枚ずつ服を脱ぎ捨てながら踊るシーンがすごく妖艶で印象的でした。

映画「雨に濡れた欲情」に出演。

監督は、映画「メリイ・ウィドウ」や「盗まれた青春」で知られる、ドイツ生まれの映画監督カーティス・バーンハートで、

共演は、映画「シラノ・ド・ベルジュラック」や「ケイン号の叛乱」「ジャンヌ・ダーク」などで知られる、プエルトリコ出身の俳優ホセ・フェラーや、映画「俺たちは天使じゃない」や「パットとマイク」などで知られるアルド・レイでした。

私生活では、この年にアルゼンチンの歌手で俳優のディック・ヘイムズと結婚します。

そして、結婚生活を優先させるため、リタ・ヘイワースは​約4年間女優を休業します。

​こちらの結婚でも、映画への出演を控えてしまったということで、結構、批判的な記事にされたりしたようです。こうやってみると、リタ・ヘイワースが結婚して映画界から離れるたびに批判的な声が聞こえるようになっていますが、これは本当に純粋な世論なのだろうか…?(笑)

ちなみに、この結婚相手のディック・ヘイムズは、リタ・ヘイワースと出会った当時、2人の元妻(厳密には1人はまだ結婚していた)から、慰謝料や子供の養育費として数十万ドルを滞納していたため、逮捕礼状まで出されそうになっていたようです。そして、なんと結局は、そのほとんどの金額をリタ・ヘイワースが負担することになったとのこと。。。

 

さらには、アルゼンチン人だったディック・ヘイムズはアメリカ国籍がなかったために今にも米国から国外追放されるところだったようですが、リタ・ヘイワースとの結婚によってアルゼンチンへの強制帰国は免れたようです。。。恋は盲目って本当ですね。

1955年(37才の年)、

4番目の夫ディック・ヘイムズと離婚。約2年間という短い結婚生活でした。

なお、この年にリタ・ヘイワースは、ロサンゼルスのナイトクラブという公の場で、夫から顔をぶたれています。これきりリタ・ヘイワースは夫の元には戻らなかったようです。

​ちなみに、このショックでリタ・ヘイワースは医者から数日間は体を休めるよう言い渡され、財政状態も悪化してきたのですが、法廷に訴えたものの敗訴したらしく元夫たちからは養育費ももらえず、相当なストレスに悩まされていたようです。

1957年(39才の年)、

映画「海の荒くれ」に出演。

監督は・映画「007/カジノ・ロワイヤル」の共同監督の1人として知られるロバート・パリッシュです。

共演は、映画「帰らざる河」や「過去を逃れて」「恐怖の岬」などで知られるロバート・ミッチャムや、

映画「お熱いのがお好き」や「アパートの鍵貸します」で知られるジャック・レモンでした。

映画「夜の豹(PAL JOEY)」に出演。

監督は、映画「アニーよ銃をとれ」や「ショウ・ボート」で知られるジョージ・シドニーで、

共演は、映画「踊る大紐育」や「地上より永遠に」「オーシャンと十一人の仲間」などで知られる俳優で歌手のフランク・シナトラや、映画「愛情物語」や「めまい」などで知られるキム・ノヴァクなどです。

この頃のリタ・ヘイワースのギャランティは、まだトップクラスの高額でしたが、コロンビア映画の実質的なトップ女優は、キム・ノヴァクになっていました

1958年(40才の年)、5度目の結婚

私生活では、この年の2月2日に、ジェームズ・ヒルという映画プロデューサーの男性と結婚。

そして、そのジェームズ・ヒルが製作総指揮を務めた映画「旅路」に出演しています。

共演は、映画「007/カジノ・ロワイヤル」や「ピンクの豹」「八十日間世界一周」などで知られるデヴィッド・ニーヴンや、

映画「地上より永遠に」や「めぐり逢い」で知られるデボラ・カー、

映画「ピグマリオン」や「オリエント急行殺人事件」「わが命つきるとも」などで知られるウェンディ・ヒラー、

そして

映画「地上より永遠に」や「許されざる者」「フィールド・オブ・ドリームス」「泳ぐひと」などで知られるバート・ランカスターなどでした。

​この作品で、デヴィッド・ニーヴンはアカデミー主演男優賞を受賞。さらに、ウェンディ・ヒラーが助演女優賞を受賞しました。

リタ・ヘイワースの演技も概ね高評価を得ています。

1959年(41才の年)、

映画「コルドラへの道」へ出演。

監督は、映画「オール・ザ・キングスメン」や「ハスラー」で知られるロバート・ロッセンで、

共演は、映画「真昼の決闘」や「オペラハット」「誰が為に鐘は鳴る」などで知られる大スターのゲイリー・クーパーです!ゲイリー・クーパーはこの頃、58才前後になりますね。

さらに、共演には、映画「ジョニー・イーガー」や「シェーン」などで知られるヴァン・ヘフリンなどがいました。

映画「The Story on Page One」に出演。(プレミア上映が1959年で、劇場公開は1960年)

監督は、映画「アメリカ交響楽」などで知られるクリフォード・オデッツで、

共演は、映画「長く熱い夜」などで知られるアンソニー・フランシオサや、

映画「ローラ殺人事件」や「我等の生涯の最良の年」で知られるダナ・アンドリュース、

そして映画「おしゃれ泥棒」や「ベン・ハー」で知られるヒュー・グリフィスなどがいました。

1961年(43才の年)、5度目最後の離婚

映画「楽しい泥棒日記」に出演

小説が原作で、

監督は、映画「砂塵」などで知られるジョージ・マーシャル、

共演は、映画「マイ・フェア・レディ」や「黄色いロールス・ロイス」「クレオパトラ」「アンナとシャム王」などで知られるレックス・ハリソンや、

映画「第三の男」や「かくも長き不在」などで知られるアリダ・ヴァリ、

そして、映画「007 ドクター・ノオ」で伝説の悪役ノオ博士を演じたことで知られるジョセフ・ワイズマンなどでした。

私生活では、映画プロデューサーのジェームズ・ヒルと離婚。(5度目にして最後)約3年の結婚生活にピリオド。

ジェームズ・ヒルが後に書いた回顧録によると、リタ・ヘイワースはハリウッドから2人して引退しようと望んでいた一方、ジェームズ・ヒルにはその気がなかったために結婚生活が破綻したとのことです。

しかし一方で、wikipediaによると、俳優のチャールトン・ヘストン夫妻やレックス・ハリソンらと、リタ・ヘイワース夫妻が一緒に食事をしたことがあったそうなのですが、その際に、リタ・ヘイワースは夫のジェームズ・ヒルから、ひどくいじめられていて、両手で顔を覆いながら泣いていたそうです。その場にいた全員が驚いて、バツの悪い思いをしたそうです。また、チャールトン・ヘストンはその時に、夫のジェームズ・ヒルを殴りたいという衝動に駆られたものの、結局は何もせずに立ち去ってしまったことを今でも悔やんでいると告白していたようです。

1964年(46才の年)

映画「サーカスの世界」に出演。(AmazonPrimeでプライム会員 無料で見放題の対象:2022/11)

監督は、映画「ナイアガラ」や「死の接吻」などで知られるヘンリー・ハサウェイで、

主演は映画「駅馬車」や「捜索者」などで有名な大物俳優ジョン・ウェイン、

そして、もう一人、イタリアのセクシーなグラマラス女優で、映画「若者のすべて」や「8 1/2」で知られるクラウディア・カルディナーレが共演しています。

クラウディア・カルディナーレといえば、1960年代前後に、イタリアの人気女優として名を馳せたことで知られていますが、Wikipediaに、同時期の人気女優3人のイニシャルが全員同じ文字になっているという記述がありました。

フランスの人気女優ブリジット・バルドー(BB:Brigitte Bardot)、

アメリカの人気女優マリリン・モンロー(MM:Marylin monroe)、

イタリアの人気女優クラウディア・カルディナーレ(CC:Claudia Cardinale)

これ、面白いですね!

本作は、ゴールデングローブ賞で最優秀主題歌賞を受賞しました。

また、惜しくも受賞は逃しましたが、リタ・ヘイワースもゴールデングローブ賞 主演女優賞にノミネートされました。

余談ですが、この作品は、もともと映画「理由なき反抗」で知られるニコラス・レイが監督だったのですが、ジョン・ウェインと対立してしまい降板。

その後、映画「ララミーから来た男」や「エル・シド」などで知られるアンソニー・マン監督に代わるも、やはりジョン・ウェインと対立して降板。

その後も映画「素晴らしき哉、人生!」や「スミス都へ行く」などで知られるフランク・キャプラ監督などを経て、結局ヘンリー・ハサウェイが監督に落ち着いたようです。

Wikipediaによると、フランク・キャプラは監督ではなくなったものの、女優たちの演技指導を務めたようですね。

いったい、何でこんなに揉めるハメになってしまったんですかね?

​それにしても、40代になってもリタ・ヘイワースは変わらず綺麗でセクシーでした♪

1965年(47才の年)

映画「銭の罠」に出演。

名コンビのグレン・フォードと5回目最後の共演を果たします。

他にも、映画「第三の男」や「ナイアガラ」「ガス燈」「市民ケーン」などで知られるジョゼフ・コットンなどがいました。

監督は、映画「ランダース」や「続・荒野の七人」などで知られるバート・ケネディです。

1966年(48才の年)

TV映画「悪のシンフォニー」に出演。

アメリカ、フランス、オーストリアの3カ国共同作品で、豪華キャストです!

 

監督は、映画「007 ドクター・ノオ」や「007/危機一発」で知られるイギリスの映画監督テレンス・ヤングで、

共演者には、映画「王様と私」や「荒野の七人」「追想」などで知られるユル・ブリンナーや、

映画「続・夕陽のガンマン」や「荒野の七人」「荒馬と女」「おしゃれ泥棒」「ホリデイ」などで知られるイーライ・ウォラックなどがいました。

 

そして、この映画には、なんと、王妃としてモナコに嫁いでいた、グレース・ケリーがナレーターを務めています。

そうそう、あと、ハロルド坂田という俳優も出演しているので日本人かなと思って調べてみたところ、ハワイ生まれの日系アメリカ人で、アメリカのプロレスラー、俳優、そして重量挙げの選手なんだそうです。

1967年(49才の年)

イタリア映画「残虐の掟」に出演。

監督は、TV映画「悪のシンフォニー」でもタッグを組んだテレンス・ヤングで、

共演は、映画「革命児サパタ」や「道」で知られるアンソニー・クインや、

イタリアの映画女優ロザンナ・スキャフィーノなどです。

1968年(50才の年)

イタリア映画「バスタード」に出演。

監督は、映画「夕陽の用心棒」などで知られるイタリアの監督ドゥッチョ・テッサリで、共演は、映画「山猫」や「夕陽の用心棒」などで知られるジュリアーノ・ジェンマでした。

1970年(52才の年)

仏映画「渚の果てにこの愛を」に出演。

監督は、フランスの映画監督ジョルジュ・ロートネルで、共演は、アメリカの女優ミムジー・ファーマーでした。

映画「The Naked Zoo」に出演。

監督は、アメリカの映画監督ウィリアム・グレーフェで、共演は、アメリカの俳優ステファン・オリバーです。

1971年(53才の年)

TV「キャロル・バーネット・ショー」シーズン4の第20話にゲスト出演。

同ドラマは1967年から1978年まで全11シーズンも放送された人気テレビドラマシリーズです。

主演は、映画「アニー」で孤児院の院長ミス・ハンニガンを演じたことなどでも知られるキャロル・バーネットです。

TV「ラフ・イン」シーズン5の第3話にゲスト出演

同ドラマは、1968年から1973年まで全6シーズン続いた人気ドラマシリーズ。

主演は、コメディアンのダン・ローワンや、ディック・マーティンです。

1972年(54才の年)

この頃、リタ・ヘイワースは女優業から引退したいと考えていたようです。

 

しかし、引退するにはお金が足りなかったようで、俳優のロバート・ミッチャムから提案を受けて映画「サンタマリア特命隊」に出演します。

そして本作が、リタ・ヘイワースの最後の映画出演作となりました。

原作はイギリスの小説で、監督は、映画「野のユリ」の監督として有名で、女優セレステ・ホルムの元夫としても知られるラルフ・ネルソンでした

共演は、映画「過去を逃れて」や「恐怖の岬」「帰らざる河」などで知られ、映画「海の荒くれ」でも共演したロバート・ミッチャムです。

しかし、この時にはリタ・ヘイワースの健康状態や精神状態はかなり悪化していたようで、セリフがなかなか覚えられない状態だったとのこと。

本当はもう1本、イギリスのホラー・コメディ映画「異界への扉」にも出演することになっていたそうですが、こちらは体調不良を理由に断念しています。

参考までに、「異界への扉」にはキム・ノヴァクやドナルド・プレザンスが主演しました。

1974年(56才の年)

この年に2人の弟がたて続けに亡くなってしまい、リタ・ヘイワースは悲しみのあまり、これまで以上に飲酒量が増えてしまったようです。

1976年(58才の年)

イギリス・ロンドンのヒースロー空港にて、エージェントと一緒に旅行中だったリタ・ヘイワースは怒りが爆発してしまい、飛行機からつまみ出されてしまうという事件が発生。

マスコミに面白おかしく取り上げられてしまったとのことですが、実はリタ・ヘイワースは、当時はまだあまり知られていなかった、アルツハイマーを患っていたようです。

ウィキペディアや厚生労働省の「みんなのメンタルヘルス」サイトなどを見ると、アルツハイマー型認知症というのは、初期症状として怒りっぽくなったりするこもあると書かれていました。

1981年(63才の年)

リタ・ヘイワースは、この前後にようやくアルツハイマーを患っていると診断され、ロサンゼルス上級裁判所から娘のヤスミン・アガ・カーンの介護の元に暮らすように言い渡されます。

ヤスミン・アガ・カーンはリタ・ヘイワースの晩年の数年間を世話しており、周りの人からリタ・ヘイワースの様子を聞かれた際には、「彼女はあいかわらず綺麗よ。でもそれは見かけだけで、抜け殻のようだわ」とも漏らしていたようです。

​ちなみに、リタ・ヘイワースはこの頃、The San Remo(ザ・サンレモ)というニューヨークのマンハッタンにあるマンションに住んでいたそうです。写真を見る限り、すごく高級そうですね!

1987年(69才の年)

リタ・ヘイワースは、この年の2月に半昏睡状態になり、5月14日、アルツハイマーによる合併症のためマンハッタンの自宅で死去。誕生日の10月になる前でしたので、享年68才でした。

リタ・ヘイワースがアルツハイマーで亡くなったことは、それまであまり知られていなかったアルツハイマーという症状について広く知れ渡らせ、同時に研究費の増加にも貢献し、医学の発展につながったと言われています。

今でも毎年、シカゴとニューヨークでは、リタ・ヘイワース・ガーラというお祭りが開かれて、その収益はアルツハイマー協会へ寄付されているようです。そして、このイベントは1985年に娘のヤスミン・アガ・カーンによって設立されたんだそうです。すごいのは、寄付金の合計額は、72億円以上にもなっているそうです!

トリビア動画

 
 
 
トリビア動画

 

リタ・ヘイワースの生涯を紹介している動画↓

 

リタ・ヘイワースのテレビ初登場↓

 

リタ・ヘイワースの生涯を紹介している動画↓

 

映画監督で俳優のエドワード・ジェームズ・オルモスが語るリタ・ヘイワース↓

 

「リタ・ヘイワースがハリウッドから脱出した本当の理由」というタイトルの動画↓

 

映画「ギルダ」でのリタ・ヘイワース↓

 

↓マドンナの1990年発売のシングル曲「ヴォーグ」の中に16人の往年のハリウッドスターの名前が挙げられているのですが、その中の1人にリタ・ヘイワースの名前もありますね♪

 

映画「ショーシャンクの空に」では、主人公の独房の壁にリタ・ヘイワースのポスターが貼ってありましたね↓

 

映画「海の荒くれ」撮影現場でのリタ・ヘイワース、ロバート・ミッチャム、ジャック・レモン↓

 

​↓リタ・ヘイワースとアリ・ハーンの結婚式の様子

 

​↓スイスで暮らすリタ・ヘイワースの様子と子供たち

おすすめグッズ

 

 

 

おすすめグッズ

写真やポスターが中心です。中にはサイン入りのものもあるかも!?

予告編 動画集

 

 

 

映画予告編動画

代表作を新しい作品順に並べています。全作品網羅ではないです。本国版の動画を多くしています。


↓当サイト「すごスタ図鑑」のYouTubeチャンネルに「リタヘイワースのすべて」という動画をUPしました♪内容は、この特集ページの内容をギュッと凝縮したものになっています☆


出演作を検索してみよう♪ →  U-NEXT | Hulu | d-TV | AmazonPrime | スカパー! 

 
 

 
リタ・ヘイワースが好きな人にオススメの俳優&女優​

 

 

画像をクリックするとAmazonへ、テキストリンクから当サイト該当ページへリンクします。

フレッド・アステア

ジーン・ケリー

bottom of page